勇気の象徴 |ミケランジェロ作・ダヴィデ像
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こんにちは。WASABI運営事務局のシナモリです。
現在開催中の大阪・関西万博。イタリア館では、5月18日から「復活のキリスト」が公開されています。
作者はルネサンス時代を代表する彫刻家、ミケランジェロ。
彼の作品は世界に多大な影響を与え、「神に愛された男」とまで呼ばれました。
今回はミケランジェロの最高傑作、《ダヴィデ像》についてご紹介したいと思います。
作品概要

ミケランジェロ・ブオナローティ 『ダヴィデ像』 / アカデミア美術館
制作期間は1501年~1504年の約3年間。
ミケランジェロ・ブオナローティによる大理石の彫刻で、台座を含む高さは5.17m、幅1.99mの大作です。
現在は、フィレンツェのアカデミア美術館が所蔵しています。
展示場所は「ダヴィデのトリブーナ」と呼ばれ、この作品のために設けられた空間です。
高い天窓からは陽光が差し込み、《ダヴィデ像》の計算された陰影と筋肉の描写を際立たせています。

出典:CONTEXT
ミケランジェロ・ブオナローティ

出典:Wikipedia
若くして才能を発揮し、十代で既に師匠を超えたと言われています。
その技術をロレンツォ・デ・メディチに見出され、フィレンツェで強い権力を持つメディチ家と親密な関係を築きました。
気難しく人嫌いで弟子もあまりおらず、制作はほとんど一人で行っていました。
自他共に認める稀代の彫刻家でありながら、絵画、建築の分野でも傑作を残しています。

孤高の天才、ミケランジェロの生涯
ダヴィデとは誰か?

ニコラ・コルディエ 『ダヴィデ王像』 /サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
旧約聖書に登場する古代イスラエルの王で、イエス・キリストの祖先にあたるエッサイの末息子です。
羊飼いだったダヴィデは父親から軽んじられていましたが、ある日預言者サムエルにより王の後継者として聖別されます。
“彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。
主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。
サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。
この日からのち、主の霊は、はげしくダヴィデの上に臨んだ。”
引用:サムエル記上16章12~13節
主の霊がもたらされたダヴィデには、不思議な力が宿ります。
猛獣を素手で追い払い、竪琴の音色で王の病を癒したほか、詩作にも秀でて雄弁になります。
神の聖別が、普通の少年だったダヴィデに英雄たる器量を与えたのです。
《ダヴィデ像》では、「サムエル記上」第17章で巨人ゴリアテと戦う場面が表現されています。

出典:Wikipedia
膠着状態が続き、やがてゴリアテという身長2.9mの大男が、代表者との一騎打ちを要求します。
敵を恐れて誰も名乗り出ない中、立候補したのがダヴィデでした。
兄たちをはじめ誰もが無謀だと止めましたが、彼は装備もないまま石を投げつけ、ゴリアテの額に一発で命中させます。
そして剣で首を斬り落とし、その光景を見たペリシテ軍は逃げ出しました。

ギュスターヴ・ドレ 『英語聖書』より (1866)
「自分は神と共にある」と信じる力が、彼に勇気を与えたのです。
様々な「ダヴィデとゴリアテ」
ダヴィデとゴリアテは多くの芸術作品に描かれ、ミケランジェロ自身もシスティーナ礼拝堂天井画にこの場面を含めています。

ミケランジェロ・ブオナローティ 『ダヴィデとゴリアテ』 / システィーナ礼拝堂

教皇選挙の舞台|システィーナ礼拝堂とは?
1440年頃に制作された、ドナテッロのブロンズ像は特に有名です。
古代以来初の裸体立像で、ミケランジェロの《ダヴィデ像》にも影響を与えています。

ドナテッロ 『ダヴィデ』 / バルジェッロ国立美術館
ヴェロッキオのダヴィデ像は、当時14歳で弟子入りした頃のレオナルド・ダ・ヴィンチがモデルと言われています。
レオナルドは整った顔と天使のような巻き毛が特徴的で、美少年ダヴィデのイメージに合致したようです。

アンドレア・デル・ヴェロッキオ 『ダヴィデ』 / バルジェッロ美術館
ベルニーニの彫刻では、石を投げる瞬間の躍動感が見事に伝わってきます。
作られたのは1623年頃で、ミケランジェロの《ダヴィデ像》を発展させた新たな表現です。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ 『ダヴィデ』 /ボルケーゼ美術館

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ 『ダヴィデ』より /ボルケーゼ美術館
カラヴァッジョは、このテーマを多く描いています。
ゴリアテの生首はいずれも自画像であり、この絵を枢機卿に贈って殺人罪の恩赦を求めたと言われています。

カラヴァッジョ 『ゴリアテの首を持つダビデ』 / ボルケーゼ美術館

カラヴァッジョ 『ゴリアテの首を持つダヴィデ』 / ウィーン美術史美術館

カラヴァッジョ 『ダヴィデとゴリアテ』 / プラド美術館
他にもラファエロ・サンティ、グイド・レーニ、マルク・シャガール、『最後の審判』に腰布を加筆したダニエレ・ダ・ヴォルテッラの作品などが存在します。
ほとんどが攻撃の瞬間や首を斬った後の場面ですが、ミケランジェロは今まさに石を投げようと敵を見据えた一瞬を表現しています。
制作の経緯
26歳の頃、フィレンツェ政府に招聘されたミケランジェロは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂造営局から彫刻制作の依頼を受けます。
造営局は毛織物ギルドの会員が主で、彼らが事業監督を務めていました。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
メディチ家と深い関係だったミケランジェロでしたが、国の状況が移りゆく中《ダヴィデ像》は民主主義の象徴ともなり得るものでした。
「反メディチ」を意味することになりますが、実は彼自身サヴォナローラの神権政治には共感しており、完全に心酔していたわけではないようです。
そしてこれは、ミケランジェロ程の技術がなければ困難な制作でもありました。
サヴォナローラはドミニコ会修道士で、メディチ家の独裁政治を批判し民衆の支持を集めた。
彼の理念はボッティチェリの画風にも大きな影響を与えている。
禁欲的な生活を強いた為反感を招き、やがて排斥された。

フィレンツェにおけるジローラモ・サヴォナローラの絞首刑と火刑 / サン・マルコ美術館
「訳あり」の大理石
元々この仕事は、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョに依頼されていました。
彼はカッラーラの採石場で高さ5mもの大理石を入手し、制作を開始します。
しかし、大まかに彫ったところで突然作業を中断し、契約も破棄してしまいました。
その大理石をアントニオ・ロッセリーノが引き継ぎますが、中途半端に手を加えて失敗し、未完成のまま25年以上放置されていたのです。

出典:Adobe Stock
そして大聖堂中庭の作業場で、制作過程を誰にも見せず黙々と《ダヴィデ像》に向き合いました。
未完成の彫刻から相当重い槌を使用していたことが見て取れ、かなりの腕力だったことがわかっています。
また、通常は石をおおまかに削ってから細部を仕上げていきますが、ミケランジェロは正面からあたりもなしに彫っていき、「ダヴィデでない部分を削り落とす」という意識で制作したそうです。
迷いなく、一心不乱に石を削っていく光景が想像できます。
完成目前の《ダヴィデ像》を見に来た市政長官、ピエトロ・ソデリーニは「鼻が大きすぎるようだから直した方がよい」と言いました。
何か一言難癖をつけて、自分の見識をアピールしたかったのかもしれません。
像の上部は、地上にいた彼からはよく見えていませんでした。
そこでミケランジェロは別の石に鑿を当て、直すふりをした後に再度見せます。
《ダヴィデ像》の魅力

ミケランジェロ・ブオナローティ 『ダヴィデ像』 / アカデミア美術館
この彫刻では、ゴリアテに石を投げる直前のダヴィデを描写しています。
片足に重心を置いたポーズはコントラポストと呼ばれ、古代ローマ・ギリシャの彫刻に影響を受けたものです。

出典:pxPIXELS
右手に石を、左手に投石用の紐を持っています。

出典:VISITTUSCANY

出典:ACCADEMIA GALLERY
胴体にはS字の曲線的な動きを持たせ、アシンメトリーでありながら美しい調和を生み出しています。
「フィグーラ・セルペンティナータ(蛇状体)」と呼ばれる螺旋を意識した構図は、マニエリスムなど後世の芸術に影響を与えました。

出典:ACCADEMIA GALLERY
なめらかな皮膚と正確な血管、その下に浮かび上がる筋肉の陰影。
解剖学に基づきリアルに表現されていますが、側面から観ると身体の厚みがやや足りない印象です。
これは、素材の大理石では奥行が足りなかった為、やむを得なかったようです。

出典:KUNC
正面からだと頭や上半身が大きく感じますが、これは下から鑑賞することを想定した比率になっています。当初は完成後、大聖堂の屋根に乗せる予定でした。
臨場感を演出するため、あえてデフォルメしたという説もあります。
瞳も下から見た時の陰影を計算して、ハート型に彫られています。

出典:CONTEXT
確かな技巧と写実性、計算された構図とデフォルメが《ダヴィデ像》に唯一無二の魅力を与えています。
《ダヴィデ像》のモデル

出典:CONTEXT
旧約聖書のダヴィデを彫るという依頼で制作したはずですが、モデルに関しては一部で物議を醸しました。
それは、イスラエルの民である証「割礼」の痕がないためでした。
割礼とは、宗教上の理由や民族の習慣で性器の一部を切除することです。
旧約聖書の創世記17章には、生後8日目の男児に割礼するよう、神が告げる場面があります。
“神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。
あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。
割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう。」”
引用:旧約聖書 創世記17章9-10,14
イスラエルの民であるダヴィデならば、割礼を受けているはずだという主張です。
ただ、ミケランジェロは作品としての美しさを優先し、そのような表現を省いたというのが通説です。
ダヴィデはポルノか芸術か
聖書の記述とは別に、「目のやり場に困る」「公共の場には望ましくない」という意見も存在します。
現代でもなお、子供に《ダヴィデ像》を鑑賞させたとして、学校長が辞職させられるなどの事案があります。
ロンドンの美術館に展示されているレプリカにも、局部を隠すためにイチジクの葉が作られていました。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 『アダムとイヴ』 / プラド美術館
旧約聖書「創世記」では、神との約束を破り知恵の実を食べたアダムとエバが、裸体でいることを恥じるようになります。そして、それを隠すために用いたのがイチジクの葉でした。
恥ずかしいもの、見せるべきでないものという感覚は芸術作品にも向けられてきました。後年のシスティーナ礼拝堂壁画においても、この論争により作品が加筆される事態となりました。
ミケランジェロは身体をありのまま描くことで、人間という存在に対する礼賛を表現したとされています。
解剖学を追究するほどに、人体の神秘と美しさに感銘を受けていました。
そして《ダヴィデ像》は、それを体現するものとして最高傑作と言えるのではないでしょうか。
宗教と芸術、そして芸術と裸体の関係性は、長年にわたり解釈の異なる問題です。
置き場所を巡る論争
1504年に完成した《ダヴィデ像》。しかし重さは6トンに及び、計画通り大聖堂の屋根に乗せるのは難しいと判断されました。
そこでレオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリらが集められ、置き場所を検討する専門家会議が開かれました。
レオナルドの提案はシニョリーア広場のロッジア(開廊)で、作品保護の観点から「屋根のある場所に置くべきだ」と主張しました。

ジュゼッペ・ゾッキ 『シニョリーア広場』 / 個人蔵

シニョリーア広場のロッジア
しかしミケランジェロは、「彫刻は外に置かれるべきだ」と主張。
ライバルであるレオナルドの意見だからこそ、反発した部分もあるかもしれません。
議論の末、元々あったドナテッロの彫刻「ユディトとホロフェルネス」を移動して、そこに設置することになりました。
この作品にはメディチ家を讃える意図があり、《ダヴィデ像》と取り換えることは政治的にも大きなアピールになるからです。

ミケランジェロ・ブオナローティ 『ダヴィデ像』(複製)
その場所がヴェッキオ宮殿の入り口で、1873年にアカデミア美術館へ移された後はレプリカが置かれています。
現在は市庁舎として使用されており、大会議室はかつてレオナルドとミケランジェロが対面に壁画を描く予定だった場所です。

フィレンツェ政庁舎 大会議室(ヴェッキオ宮殿 五百人大広間)
ルネサンスはこのフィレンツェという街を舞台に、芸術家同士が切磋琢磨し、数々の名作が生み出された時代でした。
まとめ
長年放置されていた大理石から、《ダヴィデ像》を彫り出したミケランジェロ。
その技術は、人類が到達できる最高点に位置していると言えます。
すでに一目置かれていた彼ですが、この作品で評価を絶対的なものにしました。
彫刻としての美しさは勿論、敵に立ち向かう青年の姿は、不安な社会情勢の中でフィレンツェ国民に勇気を与えました。
芸術はいつの時代も人間を映し出し、私達の力になります。
《ダヴィデ像》は歴史に残る名作、そしてミケランジェロが生きた証として、今なお受け継がれています。
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