孤高の天才、ミケランジェロの生涯
投稿日:(金)

目次
こんにちは。WASABI運営事務局のシナモリです。
ルネサンスの芸術家といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、そしてミケランジェロ。
彼は数々の傑作を生み出し、理想の美を追究し続けました。
その反面、社会情勢の中で戸惑い、恐れ、時には逃げ出し、他人と衝突することもありました。
作品やキャリアを追っていくと、天才芸術家の人間らしい部分が見えてきます。
今回は、そんなミケランジェロの生涯について見ていきましょう。
ミケランジェロ・ブオナローティとは

出典:Wikipedia
彫刻家として突出した技術を持ち、その素晴らしさは「神の如き」と称されました。
1. 独自の解釈による斬新な表現
2. ほとんどの作品が単独制作
3. 解剖学に基づく正確な人体描写
4. 本業以外でも優れた作品を残した
5. 後年の美術史に多大な影響を与えた
数多いる芸術家の中でも、特にこのような点で評価されています。
早熟の天才であり、『ピエタ』や『ダヴィデ像』は20代で制作したものです。
しかし、完璧主義なこともあり弟子がほとんどおらず、88年の生涯で完成させた作品はそれほど多くありません。
生い立ち、家庭環境
幼年期

出典:discover AREZZO
ミケランジェロは1475年、イタリアのトスカーナ州、カプレーゼで誕生しました。
このことから、現在はカプレーゼ・ミケランジェロという村名になっています。
代々銀行業を営む一族でしたが、父ルドヴィーコは事業に失敗し、共和国政府の臨時職員として働いていました。
一家はフィレンツェに移り、ミケランジェロは生後すぐセッティニャーノで親戚夫婦に育てられます。この土地ではルドヴィーコが採石場を経営しており、石工や彫刻家が出入りしていました。
幼少期から彫刻に触れて育ったことが、才能開花の一因でした。
兄一人と弟三人がおり、母フランチェスカはミケランジェロが6歳の頃に亡くなっています。
少年期(13歳~17歳)
父はミケランジェロを文法学校に入れて勉強させようとしますが、本人は絵を描くことや教会の画家たちとの交流に夢中でした。
絵画を学んでいた友人がきっかけで、13歳の時ドメニコ・ギルランダイオの工房に弟子入りします。
美術の基礎を学ぶとすぐに才能を発揮し、スケッチの素晴らしさは師匠も舌を巻くほどでした。

アーニョロ・ブロンズィーノ『ロレンツォ・デ・メディチの肖像』
豪華王と呼ばれた権力者ロレンツォ・デ・メディチは、彫刻家育成のため才能ある若手を探していました。
そこでギルランダイオの工房から、友人と共にミケランジェロが推薦されます。
やがて師の元を離れ、サン・マルコ庭園で彫刻を学ぶようになりました。
知識人が集うプラトン・アカデミーにも参加し、人文主義者や詩人たちと交流を持っていました。
彼の才能に惚れ込んだロレンツォは、我が子のように目をかけてメディチ家の館に住まわせます。
ミケランジェロはこの時期に古代彫刻や初期ルネサンス絵画などに触れ、10代で制作したレリーフにもその影響がうかがえます。

ミケランジェロ・ブオナローティ『階段の聖母』 / カーサ・ブオナローティ

ミケランジェロ・ブオナローティ『ケンタウロスの戦い』 / カーサ・ブオナローティ
この頃、同じく庭園で学んでいたピエトロ・トッリジャーノと喧嘩になります。
彼のデッサンを貶したことが原因であり、人付き合いの不器用さは昔からだったようです。
ミケランジェロは顔面を殴られ、曲がってしまった鼻の骨は生涯そのままでした。
青年期(17歳~19歳)
ロレンツォ・デ・メディチの死去をきっかけに、ミケランジェロは父の元へ戻ります。

ミケランジェロ・ブオナローティ『キリスト磔刑像』/サント・スピリト教会
1492年、サント・スピリト教会の修道院長に贈られた作品が『キリスト磔刑像』です。
修道院長は、付属病院から出た遺体をミケランジェロに提供していました。
この木彫像は人体解剖の勉強が出来たことへの御礼であり、その成果も存分に表れています。

ゲラルド・ディ・ジョヴァンニ・デル・フォーラ『ピエロ・デ・メディチの肖像』
その後ロレンツォの息子、ピエロ・デ・メディチからの制作依頼で、宮廷に戻ることになりました。
ところが、悪政を繰り返したピエロに民衆の不満が爆発。
修道士ジローラモ・サヴォナローラがメディチ家を追放し、フィレンツェを実質的に統治するようになります。
メディチ家と親しかったミケランジェロは、身の危険を感じてヴェネツィアやボローニャへ逃れました。
情勢が落ち着きフィレンツェへ戻りますが、サヴォナローラは芸術品などの贅沢を禁止。パトロンのメディチ家もいないため、仕事はありませんでした。
キャリアと人生史
詐欺事件と意外な展開

参考:ミロのヴィーナス
20歳になったミケランジェロは、メディチ家の分家筋ピエルフランチェスコの為に『幼児洗礼者ヨハネ』『キューピッド』を制作します。
彫刻の出来栄えに驚いたピエルフランチェスコは、「古代ローマ時代の発掘品と言っても通用する。偽装して、ローマで売れば金になる」と言いました。
そこでミケランジェロはわざと古めかしく加工し、美術商がサン・ジョルジョ枢機卿に高値で売りつけました。そもそも美術商が詐欺の狙いで発注したという説もあります。
しかし、この事実を知る人が枢機卿に伝え、現代の作品であるとばれてしまいました。
枢機卿は詐欺行為に腹を立てたものの、作品自体は素晴らしかったため、使いを通じてミケランジェロをローマへ招きました。
彫刻は様々な人物の手に渡りましたが、焼失などにより現存していません。
ピエタ

ミケランジェロ・ブオナローティ『ピエタ』 / サン・ピエトロ大聖堂
ローマに移ったミケランジェロは、『バッカス像』制作などを経てますます名を上げます。
そして1497年、22歳の時サン・ディオニージ枢機卿から『ピエタ』の制作を依頼されます。
この作品を枢機卿の葬儀記念碑に飾るものとして、翌年に正式な契約を交わしました。
ピエタとはイタリア語で憐みを意味し、聖母マリアが十字架から降ろされたイエス・キリストの亡骸を抱くモチーフを指します。
約2年をかけて完成した『ピエタ』の出来栄えは素晴らしく、大理石から彫られたとは思えない程です。
あまりの美しさに狂った人間により、1736年にマリアの指が折られ、1972年にはハンマーで破壊される事件が起きました。
それぞれ修復され、現在は防弾ガラスで保護した上で展示されています。

ミケランジェロ・ブオナローティ『ピエタ』 / サン・ピエトロ大聖堂
人々は絶賛しましたが、一部からは「聖母マリアが若すぎる」と指摘を受けます。
これに対しミケランジェロは、「純潔な聖女は若く見えるものだ」と知人に語ったそうです。
マリアの描写については、ダンテの『神曲』による影響や、無原罪の御宿りを理由にするものなどいくつかの考察があります。
このマリアが立ち上がった場合、イエスと比較して身長が高すぎることや、イエスの足に釘の痕が無いこと等は作品性の優先と見られています。
本来は現在のような高い位置ではなく、地面に置かれた状態で鑑賞することを想定していました。

ミケランジェロ・ブオナローティ『ピエタ』 / サン・ピエトロ大聖堂
『ピエタ』には彼の作品で唯一、サインが入れられています。
これは完成後、「他の彫刻家が作ったものだ」と噂を流されて激怒し、設置場所に忍び込んで刻んだものです。

ミケランジェロ・ブオナローティ『ロンダニーニのピエタ』 / スフォルツァ城博物館
ミケランジェロは、他にも3体のピエタを制作しています。
サン・ピエトロ大聖堂にあるもの以外は未完成で、『ロンダニーニのピエタ』は遺作となりました。
再びフィレンツェへ
メディチ家の追放、サヴォナローラの台頭と失脚を経て、ようやく情勢が落ち着きます。
フィレンツェへ戻ったミケランジェロは、依頼を受けて『ダヴィデ像』を制作します。
この作品は『ピエタ』と並ぶ最高傑作とされ、評価を確立しました。

勇気の象徴 |ミケランジェロ作・ダヴィデ像

ミケランジェロ・ブオナローティ『聖家族』/ウフィッツィ美術館
1506年頃、商人の婚礼記念に依頼された『聖家族』は、パネル絵として唯一の完成作品です。
手前から聖母マリア、幼子のイエス、養父ヨセフの聖家族が描かれ、画面右の幼児は洗礼者ヨハネです。
背後の男性たちについてははっきりしておらず、意見が分かれています。
額縁の装飾には、結婚する両家の紋章が取り入れられています。
ギベルティの彫刻『天国への門』からの影響も見え、デザインにミケランジェロ自身が関わっているとされます。
この作品ではカンジャンテという描き方が使われています。
玉虫色を意味するこの技法は、はじめに最も濃い色を塗り、その上に淡く明るい色を乗せるものです。
これにより手前の聖母マリアが最も鮮やかに見え、色彩の明暗で遠近感を表現しています。

ミケランジェロ・ブオナローティ : システィーナ礼拝堂天井画より『デルフォイの巫女』 / ヴァチカン宮殿
レオナルド・ダ・ヴィンチとの対決
『ダヴィデ像』でその才能を目の当たりにしたピエトロ・ソデリーニから、ヴェッキオ宮殿の壁画を依頼されます。

アリストーテレ・ダ・サンガッロ『カッシーナの戦い(模写)』
テーマは『カッシーナの戦い』ですが戦闘シーンではなく、水浴び中の兵士たちが不意打ちを受けて騒然とする場面を描きました。
ミケランジェロが完成させたカルトン(原寸大の下絵)は素晴らしく、多くの画家が模写をしました。
ところが、監視の目を盗んで持ち去られたため、残念ながら現存していません。
向かい側の壁には、52歳のレオナルド・ダ・ヴィンチが『アンギアーリの戦い』を描いているところでした。
しかしレオナルドは技法に失敗して制作を放棄し、ミケランジェロもローマに呼ばれた為どちらの壁画も未完成に終わります。

フィレンツェ政庁舎 大会議室 (ヴェッキオ宮殿 五百人大広間)
天才同士の対決となるはずだった壁は、ジョルジョ・ヴァザーリ工房の作品で飾られています。
ローマ教皇からの依頼
1505年、ローマに招聘されたミケランジェロは、教皇ユリウス2世から墓碑制作の依頼を受けます。
カッラーラで材料の大理石を調達しますが、ローマへの運送費用について相談しようとしたところ、ユリウス2世は取り合いませんでした。
ミケランジェロがローマを離れている間に墓碑への関心が薄れたため、対応が悪かったのです。
それに憤慨したミケランジェロは、フィレンツェに帰ってしまいます。
ローマに戻ってから中央のモーゼ像だけは1516年に完成したものの、最終的に墓碑がすべて設置されたのは、依頼から40年後のことでした。

ミケランジェロ・ブオナローティ『教皇ユリウス2世墓碑』/サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会
システィーナ礼拝堂天井画
墓碑制作中にも関わらず、ユリウス2世は『システィーナ礼拝堂』の天井画制作を依頼します。
自分は彫刻家であること、一つの仕事に集中したいことを理由に断りますが、結局教皇の命令には逆らえませんでした。
ユリウス2世からは寵愛を受けましたが、同時に彼の気まぐれや頑固さにミケランジェロは苦悩したと思われます。
そんな状況の中、本業ではない絵画でも見事な作品を生み出したのです。

教皇選挙の舞台|システィーナ礼拝堂とは?
メディチ家と教皇の板挟み
ユリウス2世は、墓碑の完成を見ずして亡くなります。
次に教皇となったレオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチの息子でした。
フィレンツェ出身者同士で何か足跡を残したいと、サン・ロレンツォ教会のファサード(建物の正面外観)を依頼します。
ミケランジェロは断りますが、またしても逆らえずフィレンツェへ向かいました。
ところが、準備に数年を費やしたにも関わらず、採石場との契約関係で揉めてしまい計画自体が中止になりました。
現在でもこの建物の外観は非常にシンプルなものとなっています。

サン・ロレンツォ教会 ファサード

ミケランジェロ・ブオナローティ『サン・ロレンツォ教会 ファサード模型』
このように、メディチ家や教皇からの仕事が絶えない反面、振り回されることばかりでした。
軍事技術者の仕事
1527年のローマ劫掠を機に、フィレンツェ市民が蜂起してメディチ家を追放します。
ミケランジェロは軍事技術者として、共和国軍に参加しました。
要塞の設計を行う傍ら、メディチ家の墓碑制作も秘密裏に進めていました。
カール5世と教皇クレメンス7世の和解により今度はフィレンツェが攻め込まれ、ミケランジェロはまたもや逃亡。
やがてフィレンツェは陥落し、メディチ家の権力も復活します。
敗れた革命軍の仲間は処刑されていきますが、ミケランジェロだけはクレメンス7世の恩赦を受けました。

セバスティアーノ・デル・ピオンボ 『クレメンス7世の肖像』/ カポディモンテ美術館
※ローマ劫掠…神聖ローマ帝国のカール5世によるローマへの襲撃を指す。
クレメンス7世がフランスと手を組み、寝返ったことへの報復。
ローマの混乱はフィレンツェにも伝播し、市民の蜂起によるメディチ家追放・共和国再興の動きへとつながった。
最後の審判
そしてクレメンス7世に依頼されたのが、システィーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』です。
なんとかユリウス2世の墓碑を進めたいところでしたが、彼の死後教皇となったパウロ3世からも制作を望まれ、やむなく取り掛かります。

教皇選挙の舞台|システィーナ礼拝堂とは?
建築家ミケランジェロ
ミケランジェロは建築家としても活躍しており、レオナルド・ダ・ヴィンチ同様「万能の人」でした。
サンタンジェロ城の『レオ10世礼拝堂』や、『サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ大聖堂』、『ポルタ・ピア』などローマでもミケランジェロが携わった建築を見ることが出来ます。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ大聖堂

ポルタ・ピア
ファサード設計が中止となったサン・ロレンツォ教会ですが、メディチ家礼拝堂や新聖具室などは手掛けていました。
特に『ラウレンツィアーナ図書館』は、階段の設計や書見台、椅子のデザインまで行っています。
1523年頃着手しましたが、システィーナ礼拝堂の仕事と重なりなかなか進まず、完成はミケランジェロの死後1571年のことでした。

ラウレンツィアーナ図書館 階段
1536年にはサン・ピエトロ大聖堂と同時にカンピドリオ広場を設計します。
その他にも、多くの聖堂や教会の建築を手掛けました。

カンピドリオ広場
サン・ピエトロ大聖堂
1546年、『最後の審判』を描き上げたミケランジェロは、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築を依頼されます。

サン・ピエトロ大聖堂
ミケランジェロは歪んだ部分を取り壊し、美しく作り直すよう計画しました。

サン・ピエトロ大聖堂 クーポラ内部
ミケランジェロが派遣した優秀な人材を無断で解雇したり、造営に手を抜く、陰口を言うなど陰湿な行為が度重なりました。
年老いたミケランジェロは疲れ果て、人生の終わりが間近であると感じていました。そしてサン・ピエトロ大聖堂の建設計画が、自分の死後に失われてしまうことを恐れます。
しかし教皇ピウス4世が、ミケランジェロの死後も彼の計画通り進めるよう命じました。そのおかげで、サン・ピエトロ大聖堂は堅固な状態で現存しています。
なお、かつてミケランジェロを貶めようとした建築家は、その命に背いたため解雇されています。

サン・ピエトロ大聖堂
現場に行けなくなっても、図面や設計図を送って自宅から監督し続けました。
死の間際まで制作していた
1542年から1550年の間で、ヴァチカン宮殿に2枚のフレスコ画を描いています。

パオリーナ礼拝堂 ヴァチカン宮殿

ミケランジェロ・ブオナローティ『サウルの改宗』/ パオリーナ礼拝堂

ミケランジェロ・ブオナローティ『ペテロの殉教』 / パオリーナ礼拝堂
亡くなったのはローマでしたが、生前の希望により、フィレンツェで埋葬されることになりました。
コジモ1世の計らいによりサン・ロレンツォ教会で葬儀が行われ、遺体はサンタ・クローチェ教会に眠っています。
墓碑は数少ない弟子の一人だったジョルジョ・ヴァザーリと、若手の彫刻家たちにより作られました。

ジョルジョ・ヴァザーリほか『ミケランジェロ墓碑』 / サンタ・クローチェ教会
ミケランジェロは、文字通り生涯芸術家であり続けました。
高齢で体が衰えても、亡くなる数日前まで『ロンダニーニのピエタ』の制作に取り組んでいたのです。
ミケランジェロの人となり
完璧主義者
ミケランジェロが残した彫刻作品は10点程しかなく、それは少しでも気に入らなければ破壊・破棄してしまうからです。
亡くなる前には下絵なども燃やしてしまい、「自分が完璧以外の何ものにも見せまいと、耐え忍んだ苦労や自分の才能を試した方法を、誰にも見られないようにした」と述べています。
残っていたデッサンは遺族の手に渡り、甥によりローマでも発見されました。一部ではあるものの、ミケランジェロの思考が辿れる貴重な資料となっています。

ミケランジェロ・ブオナローティ『聖アンナと子連れのマドンナ』 デッサン
妥協することなく、手伝いにきた画家も技術が足りなければ解雇してしまいます。
そのため弟子はほとんどいませんでした。
自分にも厳しく、「解剖学を修めない者は芸術表現できない」と、10代の若さで人体解剖を行いました。
名言の多さで知られるミケランジェロですが、「人間にとって恐ろしいのは目標が高すぎて達成できないことではなく、目標が低すぎてすぐに達成してしまうこと」という信念は作品にも常に現れています。
孤高のアーティスト

ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ『ミケランジェロの肖像』 / テイラー美術館
しかし富を有しながらも生活は質素で、身なりにも無頓着でした。
コミュニケーションに長けたレオナルド・ダ・ヴィンチ、女性との交流が絶えなかったラファエロとは違い、他人と食卓を囲むことはほとんどなかったそうです。
レオナルドとはライバル関係にあり、彼に話しかけられても冷淡な対応か、喧嘩腰で接したという記録が残っています。
レオナルドが著書で「画家は優雅だが、彫刻家は汚い労働者のようだ」と書いたことが決定的だったようです。
これらの性格から、ミケランジェロは気難しく人嫌いだと評されます。
ただ、弟たちに金銭的援助をしたり、甥を可愛がる一面もありました。後述の交友関係から見ても、狭く深く心を開くタイプだったのだと思われます。
気に入らない芸術家に対しても、その仕事の良いところについては認めていました。
交友関係
トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリ
ミケランジェロは生涯独身で、同性愛者であったというのが通説です。
その理由として、貴族の美青年カヴァリエーリに贈った素描や詩の存在があります。

ミケランジェロ・ブオナローティ『ティテュオスの罰』 / ロイヤル・コレクション

ミケランジェロ・ブオナローティ『ガニュメデスの略奪(模写)』/ フォッグ美術館
これらの素描は、57歳のミケランジェロが、23歳のカヴァリエーリに絵を教える為に描いたとも言われます。
モチーフが恋慕や同性愛を意味する神話であるため、研究者の間ではミケランジェロの性的志向に結びつけることが多くなっています。
また、熱い想いを綴ったソネット(14行の詩)なども残しています。
真相は不明ですが、女性の絵でも男性の身体を元にデッサンしており、筋肉美への執心があったことは確かです。
システィーナ礼拝堂に描いた絵には、カヴァリエーリがモデルとされる人物や、睦まじい男性同士が描かれています。
ヴィットリア・コロンナ
ペスカーラ侯爵夫人で詩人のヴィットリア・コロンナとは、彼女が亡くなるまで親交が続きました。
ヴィットリアは35歳で未亡人となった後、社交界を離れて詩作に専念します。
美しく教養溢れる彼女に求婚する者も多かったようです。

セバスティアーノ・デル・ピオンボ『ヴィットリア・コロンナの肖像』

ミケランジェロ・ブオナローティ : ヴィットリアを描いたデッサン
それ以来、滞在地が変わっても文通で詩を送りあいました。
ヴィットリアとは恋愛関係でなく、親しい友人であったという意見が多数です。
人付き合いの限られたミケランジェロにとって、彼女は心を許せる貴重な存在でした。
ジョルジョ・ヴァザーリ

ジョルジョ・ヴァザーリ『自画像』 / ウフィッツィ美術館
この伝記にはミケランジェロをはじめ、ルネサンス期に活躍した芸術家たちの人生が書かれています。
記述ミスや誇張は見られるものの、西洋美術史における貴重な資料になっています。
ミケランジェロが49歳の頃に弟子入りしており、直接学ぶ機会は少なかったものの、たびたび助言を求めました。晩年のミケランジェロに毎日のように会いに行き、彼の死後には墓碑をデザインしました。
ヴァザーリも多くの素晴らしい作品を残し、建築ではウフィッツィ宮殿やヴァザーリの回廊が有名です。

ヴァザーリの回廊
まとめ
当時の平均をはるかに超え、88歳という長寿だったミケランジェロ。
芸術家として生きる中で、仕事に関する様々な言葉を残しています。
「天才とは永遠の忍耐である。」
「優れた芸術を創造し、優れた仕事をするためには、一生懸命に倦まず弛まず働くことだ。」
「おおよそ完全無欠な仕事というものは、多くの小さな注意と、小さな仕事とが相集って成る。ゆえに大事を完成するものは、細心の注意と努力である。」
「私がこの芸術の域に達するまでに、どれほどの努力を重ねているかを知ったら、芸術家になりたいとは誰も思わないだろう。」
これらの言葉通り、才能に甘んじることなく独自の表現を磨き続けました。
彫刻における構図や建築物のデザインなど、ミケランジェロが生み出した作品はルネサンス以降のマニエリスム、バロックという時代につながっていきました。
芸術家の生涯や人間性、社会情勢などの時代背景を知ると、作品鑑賞がより深く楽しめるかもしれません。
【おすすめ記事】

勇気の象徴 |ミケランジェロ作・ダヴィデ像

教皇選挙の舞台|システィーナ礼拝堂とは?

レオナルド・ダ・ヴィンチに学ぶ、人生のヒント