レオナルド・ダ・ヴィンチに学ぶ、人生のヒント
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こんにちは。WASABI運営事務局のシナモリです。
みなさんは偉大な芸術家、それも500年前の人物のことは、遠い存在に感じませんか?
しかし、彼らも一人の人間であり、その足跡には現代の私達にも活かせるヒントが詰まっています。
今回は、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの作品群とその生涯を見ていきたいと思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチとは?

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『モナ・リザ』 / ルーヴル美術館
ルネサンス三大巨匠と呼ばれ、15世紀のイタリアで活躍した芸術家です。
世界で最も有名な絵画《モナ・リザ》を描いた画家であり、その才能はあらゆる分野に及びました。
建築家・軍事技術者としても活躍し、そのほか科学、数学、幾何学、光学、解剖学、植物学、天文学、物理学、水理学、空気力学など多岐にわたり研究し続けました。
「経験則から学ぶ」を信条とし、自ら30体の人体解剖を行ったとされています。
それらの観察記録やスケッチ・思考メモは、現存するものだけで7200枚にのぼります。
そしてその深く幅広い知識が、彼の絵画に集約されているのです。
技術の素晴らしさだけでなく、人物の魅力的な表情や未だに解明されていない謎など、あらゆる要素が人々を惹きつけています。
生い立ち、家庭環境

出典:TOSCANA NEL CUORE
レオナルドは1452年4月15日、イタリア・フィレンツェのヴィンチ村で生まれました。
フルネームとしては、レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ=「ヴィンチ村のセル・ピエロの子レオナルド」になります。
父・ピエロをはじめ、公証人は敬称の「セル」(ser=英語のsir)をつけて呼ばれました。
しかしレオナルドは私生児のため、同じ職に就くことはできませんでした。
当時のフィレンツェ公証人組合は、由緒正しい生まれでない者を受け入れなかったのです。
ただ、これにより彼が絵の道に進んだので、美術界にとっては幸運だったのかもしれません。
母・カテリーナは貧しい農夫の娘で、レオナルドの授乳期間を終えた後、別の男性と結婚しています。身分の違いなどから、ピエロと正式に結婚することはできませんでした。
ピエロの再婚により、レオナルドには4人の義母と16人の異母兄弟が存在します。
当時は歳の差結婚も珍しくなく、レオナルドと年齢の近い義母もいました。
複雑な家庭環境ながら、父が息子に絵の仕事を紹介したり、老いた実母と数年間共に暮らすなど、関わりは持っていました。
しかし最後まで嫡子としては認められず、のちに相続問題で揉めたこともありました。
子供の頃から絵を描くのが好きで、すでにその才能の片鱗が見えていたようです。
ピエロが息子の絵を見せたことがきっかけで、知り合いのヴェロッキオの工房に弟子入りします。当時は親方の教えを受けて働きながら、絵や彫刻を学ぶのが一般的でした。
ここからレオナルド・ダ・ヴィンチの芸術家人生がスタートしていきます。
キャリアと人生史
工房での修業時代
14歳で工房に入ったレオナルドは、住み込みで働きながら様々なことを学びます。
ヴェロッキオや他の職人たちから得た物は、レオナルドにとって重要な礎となりました。
対象を注意深く観察してひたすらスケッチをし、幾何学と美の関係、科学、筋肉構造、明暗法の勉強などにも熱心に取り組みます。
また、絵具をぼかしながら描くスフマート技法もすでに生み出しており、いかに早熟であったかが伺えます。
工房にはメディチ家をはじめ、財力のある顧客から多くの注文が入っていました。
当時は、職人たちが1つの作品を共同制作することが普通でした。
日に日に評価を上げていたレオナルドも、やがて師匠の仕事の一部を担当するようになります。
《キリストの洗礼》では、キリストの身体と左側の天使、背景の一部を描きました。
筋肉の表現、人物の表情、陰影のつけ方などはすでにヴェロッキオを超えており、“師匠に筆を折らせた”として有名な逸話になっています。

ヴェロッキオ工房 『キリストの洗礼』 / ウフィッツィ美術館
舞台やパレードが催されれば、装飾などの仕事が入ります。
レオナルドはこの頃からショーの見せ方、飛行装置の考案など、絵画以外の部分でも才能を磨いていきます。
彼の特徴的な遠近感の表現は、舞台などの虚構と現実を共存させる演出を手掛けたことにより、培われていったのです。
一人前の画家となる
20歳で画家組合(サン・ルカ同信会)に登録し、親方の資格を得て一人前となりました。
とはいえ独立するのはまだ難しかった為、引き続きヴェロッキオの工房で働きながら、自分の仕事に取り組んでいきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『雪の聖マリアの日』 / ウフィッツィ美術館版画素描室
このスケッチは現存する中で最古のレオナルド作品であり、ヨーロッパ初の風景画ともいわれています。
ヴィンチ村近くのアルノ川周辺を、リアルかつ幻想的に描いています。
それまで自然は、あくまで人物画の背景として描かれるものでした。
そのため、風景のみを主題としたのは画期的なことだったのです。
遠くの描き方には、空気遠近法の概念がすでに垣間見えています。晩年の作品は、この頃から見出していた技法がさらに磨かれ、成熟していきます。
デビュー作 受胎告知

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『受胎告知』 / ウフィッツィ美術館
工房での共作という説もある《受胎告知》ですが、絵具をのばした際の指紋をはじめ、レオナルドの手による痕跡は多く残っています。
20代にして既にその観察力と描写力は精彩を放ち、特筆すべきは影を色の使い分けで表現した点です。
太陽光の当たった部分は黄味がかり、そうでない部分には空の青味が含まれています。
また、鑑賞者の角度により歪んだり自然に見えたりする遠近感(アナモルフォーシス)も取り入れています。
よく見ると天使の後ろ側、塀が途切れている部分が不自然です。
他人の手が入ったこともあり完成度は晩年の作品に及びませんが、リアリティや美しさを追い求める熱意が伝わってきます。
モナ・リザに繋がる?ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』 / ナショナル・ギャラリー
この絵は貴族の女性を描いたもので、父・ピエロの縁で注文を受けたと見られています。
レオナルドの作品において、宗教画ではない初めてのものです。
口元を形作る陰影と、リアルな肌の質感。背景の描写や少し斜めを向いたポーズなど、後の《モナ・リザ》に通じるものがあります。
人物と自然風景にスポットを当てたこの構図は、彼の中に深く残っていたのかもしれません。

モナ・リザとは?|万能の天才が描いた謎と魅力を解説
ピンチはチャンス 新天地ミラノへ

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『東方三博士の礼拝』 / ウフィッツィ美術館
25歳で独立したレオナルドは、未完成となった《東方三博士の礼拝》、《聖ヒエロニムス》の制作などを経て、ますますその発想や技術を磨き上げていきます。
しかしこの時期には気分が落ち込み、思うように仕事が出来ずにいました。
報酬のことで揉めたり、注文をもらえなかったり、さらには自分だけがローマでの大きなプロジェクトに呼ばれないなど、不安定な状況が続きます。
この頃のノートには、「本来であれば、いたずらに時間を浪費せず、人々の記憶に残る作品を生み出す喜びを感じているはずの日々なのに」と書いています。
しかしこれは大きな転機となり、フィレンツェを離れたことで新たな活躍の場を広げていきました。

出典:Pixabay
ミラノでの17年間は、レオナルドにとって公私ともに重要なターニングポイントとなりました。
30歳になっていた彼は、宮廷の仕事を得られるようミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァへ自薦状を送ります。
ただしアピールしたキャリアは芸術家としてよりも、建築や軍事技術に関する内容がメインでした。
経験はなかったものの、その後持ち前の発想力で様々な武器や装置を考案します。
採用されたものは殆どありませんが、後にチェーザレ・ボルジアに軍事技術者として仕える際の下地となりました。
大聖堂の設計アイディアを出す会議にも参加し、そこで出会った友人ドナート・ブラマンテをはじめ、様々な分野の知識人と交流しました。
38歳の頃には、弟子となる美少年サライと出会い、共に暮らすようになります。
多才な総合芸術家
宮廷で主に携わったのは、舞台やイベントの仕事でした。
ここでは建築技術や装置の開発、衣装デザイン、文芸などレオナルドの独創性を存分に発揮することができ、評価を受けます。
芸術性と技術の融合は、ルネサンスの時代においても大きなテーマであり、それを探究できる環境がありました。
リラの弾き語りをするなど音楽家としても優れ、なんと新しい楽器の考案まで行っていました。

出典:Wikipedia
ヴィオラ・オルガニスタは、弦楽器の音色を鍵盤で奏でるものです。
当時は構想のみでしたが、近年ポーランドのピアニストによってこの楽器が実際に製作されました。YouTubeにも演奏動画が載っていますので、ぜひ聴いてみてください。

出典:Colossal
画家としてのキャリア
別ジャンルの仕事が多かった時期ですが、絵画の依頼もありました。
ミラノでは《岩窟の聖母》、《白貂を抱く貴婦人》、そして《最後の晩餐》を制作しました。

レオナルド・ダ・ヴィンチほか 『岩窟の聖母』 / 左:ルーヴル美術館 右:ナショナル・ギャラリー
レオナルドが手掛けた《岩窟の聖母》は二枚あり、現在ではそれぞれ別の美術館が所蔵しています。教会の祭壇画として、デ・プレディス兄弟と共に描いたとされます。
しかし、どちらがいつ完成したのか等様々な説があり、その経緯は複雑です。
一枚目は未完成で、後年フィレンツェからミラノに戻った際に、二枚目を完成させたと言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『白貂を抱く貴婦人』 / チャルトルスキ美術館
《白貂を抱く貴婦人》のモデルはチェチリア・ガッレラーニで、ルドヴィコ・スフォルツァが妻とは別に愛した女性でした。
これは彼女が15歳頃の肖像画で、ルドヴィコがレオナルドに初めて依頼した絵です。
ルドヴィコの象徴である白貂を抱き、生き生きとした瞳には彼女の知性が滲んでいます。真っ黒な背景はその美しさを際立たせ、人物の魅力が鑑賞者に伝わる傑作です。
そしてこの後、ルドヴィコの依頼により《最後の晩餐》が描かれることになります。

最後の晩餐 | 時代をつなぐ奇跡の名画
ミラノを離れる
キャリアの最盛期を迎えていたレオナルドですが、フランス軍の侵攻によりミラノの街には次第に陰が差します。
作品の材料が軍事利用されたり、報酬に関する揉め事も増えるようになりました。やがて本格的にミラノが征服されると、レオナルドは故郷フィレンツェへ戻る決心をします。
なお、《最後の晩餐》を目にしたフランスのルイ十二世は、その素晴らしさに「これを持って帰れないだろうか」と述べたそうです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『イザベラ・デステの肖像』
フィレンツェへ戻る道中、マントヴァ公国とヴェネツィアに立ち寄っています。
マントヴァではイザベラ・デステの肖像をデッサンし、それが後に《モナ・リザ》のイメージにつながったという説もあります。
ただしこの肖像画は完成することなく、イザベラからはたびたび催促が来ていたようです。

モナ・リザとは?|万能の天才が描いた謎と魅力を解説
その後に訪れたヴェネツィアでは、これまでの価値観が大きく変わることになります。
多様な文化が共存する環境は当時のヨーロッパでは珍しく、新鮮さに満ち溢れていました。
絵画技術でも様々な発見があり、平面鏡によって自画像の制作も可能となります。
本から多くを学び、医学の授業や解剖学研究にも夢中になりました。
さらには、アジアや中東の文化・宗教にも触れ、仏教徒とも交流があったようです。
レオナルドの作品が世界中で支持されるのは、このように異国文化も影響していることが一因なのかもしれません。
第二のフィレンツェ時代
フィレンツェに戻ったレオナルドは50代を迎え、軍事技術者として8か月間チェーザレ・ボルジアに仕えます。
都市を軍事拠点とするため作成したイーモラの地図は、恐ろしいほど正確に描かれています。

出典:Wikipedia
真上からの視点で描いた地図はそれまでに無く、レオナルドが開発した走行距離計のデータも非常に有益なものでした。
長年の望みだった仕事に就き、存分にその能力を活かしますが、やがて戦争に関わることを憂いチェーザレの元を去りました。
その後は水路の設計などに携わっています。

ピーテル・ルーベンスほか 『アンギアーリの戦いに基づくスケッチ』 / ルーヴル美術館
画業では、シニョーリア宮殿の壁画を依頼されます。
テーマはフィレンツェの戦士たちを描いた《アンギアーリの戦い》。
反対側の壁はミケランジェロが依頼を受けており、ライバル同士の作品が向かい合う予定でしたが、未完成に終わっています。
《最後の晩餐》の反省から新たな技法を試したレオナルドですが、絵具がうまく壁に付着せず、試行錯誤する中で豪雨被害にも遭い、最後まで描くことは出来ませんでした。
《アンギアーリの戦い》は現存せずルーベンスらの模写が残るのみですが、その構図の素晴らしさはイメージできます。
また、この作品のためのスケッチには、顔の筋肉構造を踏まえた巧みな感情表現が見て取れます。
再びミラノへ
父・ピエロが亡くなった後、期間限定の条件でミラノに滞在します。
1508年頃には、二枚目の《岩窟の聖母》を完成させたと言われています。
しかしフランスのルイ十二世からの要望もあり、一時期は相続問題でフィレンツェに戻ったものの、再びミラノを拠点とします。画家よりも建築家、科学者、技術者としての仕事が主でした。
55歳で当時14歳の少年フランチェスコ・メルツィと出会い、養子にします。メルツィは画家を目指す少年であり、やがて弟子兼秘書のような存在となり共に過ごしました。


レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿
ミラノでは再び解剖学に熱中します。
医学的知識を深め、その観察眼で精緻なスケッチを多く残しています。
脳解剖の際には、知覚・感情・動作がどのようにつながっているのかを調査しました。
人体に詰まったあらゆる情報は、レオナルドにとって「小宇宙」と呼べるものでした。
人間=小宇宙、自然=大宇宙がつながる様を作品に表現することが、晩年のレオナルドにとって最大のテーマだったと見られます。
ローマへ呼ばれる

トリノの肖像画
自画像として有名なこの絵は、レオナルド60歳頃のものとされています。
1513年には、当時のローマ法王(ジョバンニ・デ・メディチ)の弟ジュリアーノをパトロンとし、厚待遇で迎えられます。
この時ローマではミケランジェロやラファエロも活躍しており、様々な芸術作品が生み出されていました。
しかしレオナルドが注文作品を仕上げることはなく、これまでの自分の絵画に手を加え続けるのみでした。
相変わらず医学や科学、工学に熱中していたようです。
最後のパトロン フランス王

出典:Royal Connection
ローマで3年間を過ごし、やがてジュリアーノが亡くなると、今度はフランソワ1世の誘いを受けてフランスに移ります。
写真のクロ・リュス城は、レオナルドの終の棲家となりました。
充分な報酬をレオナルドに与え、知性と教養豊かなフランソワ1世は、最後にして最高のパトロンでした。
彼が依頼したのは絵画ではなく、新たな都市と宮殿の設計。
これまで探究してきた分野の集大成となり得るものでしたが、実現はしませんでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『洗礼者ヨハネ』 / ルーヴル美術館
50代頃から晩年まで制作を続けた作品の一つが、《洗礼者ヨハネ》です。
《聖アンナと聖母子》、《モナ・リザ》と共に、最期までレオナルドが手元に置いていました。
中性的で魅惑的な表情は、美貌の弟子サライがモデルとも言われます。
近年発見された《サルバトール・ムンディ》にも通じる雰囲気で、神秘性の高い作品です。
この頃には、脳卒中の後遺症で手があまり動かなくなっていました。
しかしその探究心は尽きることがなく、最後に残したノートには図形の面積に関するメモが記されていました。
67歳を迎えたレオナルドは遺書を作成し、メルツィに葬儀の詳細や遺産の分配を指示します。
そして1519年5月2日、偉大な芸術家は寝室で息を引き取りました。

ドミニク・アングル 『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』 / プティ・パレ美術館
関連人物紹介
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435-1488)

出典:Florence choral
レオナルドの師匠。14歳で弟子入りした工房の親方。
彫刻や絵画のほか、幾何学、解剖学、光学など多方面の知識を学ばせた。
その他の弟子として、ペルジーノ(ラファエロの師)、ギルランダイオ(ミケランジェロの師)などがいる。
温厚で慕われていたが、仕事はマイペースだったとされる。
代表作:キリストの洗礼、ダビデ像など
フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)

出典:Rome in winter
建築家。遠近法の概念を再発見し、提唱した。
アルベルティ(1404-1472)がその研究をさらに深めて発展させた。
彼も非常に多才で、様々な分野を学び繋げていく考え方はレオナルドの礎となった。
ミケランジェロ・ブオナロッティ(1475-1564)

出典:Florence Choral
画家、彫刻家。ルネサンス三大巨匠の一人。
気難しい性格で馴れ合うことがなく、レオナルドとはライバル関係にあった。
のちにラファエロは、レオナルドとミケランジェロの作品から多くの影響を受けた。
代表作:ダビデ像、システィーナ礼拝堂天井画など
ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1547)

出典:NewYorkTimes
ミケランジェロの弟子で、画家、建築家。
評伝『芸術家列伝』の著者。現在までのレオナルド研究において、彼の記述が参照される場合が多い。
ただし脚色や願望的捏造、誤った記述もある為全てが真実であるとは言い切れない。
ルドヴィコ・スフォルツァ(1452-1508)

出典:Britannica
ミラノ時代のパトロン。
当時の実質的支配者で、レオナルドの傑作《白貂を抱く貴婦人》、《最後の晩餐》を依頼した。
ジュリアーノ・デ・メディチ(1479-1516)

出典:Wikipedia
ローマ時代のパトロン。
当時の法王レオ十世の弟で、兄弟共に芸術を愛し援助を惜しまなかった。
チェーザレ・ボルジア(1475-1507)

出典:THORNS OF TIME
レオナルドがフィレンツェで仕えた傭兵隊長。
元枢機卿。残忍かつ独裁的で、マキャヴェリの著書『君主論』に影響を与えた。
フランソワ1世(1494-1547)

出典:Wikipedia
フランス王にして、最後のパトロン。
レオナルドを厚待遇でフランスに迎え入れた。
歳の差は大きかったが、互いの知識・教養を尊敬し合い親交を深めた。
レオナルドを看取ったとされるが、諸説ある。
ジャン・ジャコモ・カプロッティ・ダ・オレノ(1480-1524)

出典:Mitown
レオナルドの弟子で、恋人だったとされる。
通称サライ(=小悪魔の意)。
レオナルドが38歳の頃ミラノで出会い、以降面倒を見る。盗み癖があり奔放な性格だったが、レオナルドは晩年近くまで側に置き続けた。
フランチェスコ・メルツィ(1493-1568)

出典:Photographfrance
レオナルドの弟子兼付き人。養子でもある。
サライとは異なり聡明で忠実な人物で、遺品など様々なものを託された。
レオナルド・ダ・ヴィンチの人物像
人となりについて
レオナルドの外見に関しては、多くの記録や作品から非常に美しかったと評されています。
ヴァザーリは著書で「レオナルドは圧倒的に美しく、どこまでも優雅な男であった」と書いています。
整った顔立ちに天使のような巻き毛を持ち、ヴェロッキオは弟子入りした頃のレオナルドをモデルに、ダヴィデ像を作ったとされます。

アンドレア・デル・ヴェロッキオ 『ダヴィデ』 / バルジェッロ美術館
アテネの学堂に描かれたプラトン(向かって左)は、レオナルドがモデルだと言われています。
歳を重ねてからは顎鬚を蓄え、知的な雰囲気が伝わってきます。
「ばら色の服を身に付けていた」という記録があり、華やかな服装もレオナルドのイメージだったのかもしれません。

ラファエロ・サンティ『アテネの学堂』/ヴァチカン宮殿
交友関係は広く、仲間と共に仕事をしたり、様々な分野の有識者と議論を交わすなど、コミュニケーションを深めていました。
親しみやすい雰囲気で、多くの人から愛されていたそうです。
売られている鳥を買って放してやる程の動物好きで、菜食主義者でもありました。
生涯結婚はせず、弟子の少年サライと恋人関係だったと言われています。
24歳の時、同性愛容疑で告発されますが、証拠不十分で無罪となりました。
女性を描く際には、そこに母性を中心とした女性観が見受けられます。
肖像画のモデルに対しては、男女問わずその内面が滲み出るような素晴らしい描写力を発揮しています。
すべては純粋な好奇心
万能の天才と呼ばれる最大の理由は、その知識・研究対象の幅広さです。
基礎教育こそ受けませんでしたが、経験に基づく学びを積み重ねました。
人々が当たり前に見ている事柄に対し、「なぜそうなるのか?」を突き詰めることで、様々な仕組みを理解していきました。
その上で、あえて法則を無視して表現することもありました。膨大な知識に裏付けされた効果的な描写が、作品に説得力を与えています。

出典:OPEN CULTURE
現実主義な反面空想することも多く、それらは自由で大胆な発想として、様々な装置のアイディアに結び付いていきました。
なお、レオナルドのノートで主に使われた鏡文字は、左利きであった彼が字を書きやすくする工夫でした。
知識を得るだけでなく自分の見解を持つことも大事にしており、特に有名なのが『ウィトルウィウス的人体図』です。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『ウィトルウィウス的人体図』/ アカデミア美術館
これは、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの提唱した人体比例を研究し、さらに自分が観察したことを含めて描いたものです。
人体は円と正方形の中に収まるというイメージ図で、各部位の長さと割合の関係をあらわしています。
つま先からかかとまでの長さを身長の6分の1としましたが、レオナルドは解剖学に基づき、7分の1としています。
このように、先人から学ぶだけでなく、自分で確かめながら知識をより深いものにしました。
まとめ
現代では多様化が進み、アートのジャンルも枝分かれしています。
しかしそれまでの時代、自分の理想を自由に表現する事は容易ではありませんでした。
レオナルドの有能さは圧倒的で、たしかに天才と呼べるかもしれません。
しかしそれを社会で活かす為には、人と関わり試行錯誤し、様々な知識を学んで繋げる努力が必要でした。
そして、悩み・もがきながら見出した軸が、彼の人生を支えていきました。
信じるものは自分で学び取り、決める
セオリー通りに描くことも大事ですが、レオナルドは作品をいかに美しく仕上げるか・鑑賞者からどのように見えるかという点を重視しました。
そして独自の解釈や表現は、日々の学びが根底にあったのです。
無宗教、異教徒と呼ばれたレオナルド。
彼にとって信仰とは聖書の内容ではなく、自然や人体から見出した真理のようなものでした。
生きる場所を変えてみる
思うような仕事ができなかった時期も、レオナルドは自薦状を書いて権力者にアピールしました。
実績はなくとも、夢を明確にイメージして準備をしています。
ライバルたちに追い抜かれたと感じても、彼には彼の新天地がありました。
個性を発揮できる場所へ移動してみると、その後の夢につながることがあるものです。
異なる文化を知り、多様性を受け入れる
彼らの時代、新しい価値観に触れる驚きは一際強かったと思います。
しかし好奇心と知識欲の塊だったレオナルドにとって、それらは新鮮な刺激であり、芸術家としての力になっていきました。
違いを否定するのではなく、認め合い共存することが、レオナルドの表現したい核だったのかもしれません。
完璧な人間でなくてもいい
万能の天才も、飽きっぽく集中できない面があり、注文や催促を無視して自分の研究に没頭していました。
新しい技法を試して失敗することも、アイディアが採用されないこともありました。
心の赴くままに生き、未完成の作品も多く、絵筆を持たない時期が続きます。
ノートに陰鬱とした気持ちを綴る日もありましたが、それでも知的欲求を突き詰めた結果、世界の至宝と呼ばれる傑作を生みだしたのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチはその生涯と作品を通して、私達に進む勇気を与えてくれています。

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