最後の晩餐 | 時代をつなぐ奇跡の名画
投稿日:8時間前に更新

目次
みなさんこんにちは。WASABI運営事務局のシナモリです。
レオナルド・ダ・ヴィンチといえば《モナ・リザ》、または《最後の晩餐》を思い浮かべる方が多いと思います。
15年前に実物を観る機会がありましたが、その価値と歴史の重み、今日まで受け継がれてきた尊さを感じました。
今回は、《最後の晩餐》の基礎知識や、奇跡の絵画と呼ばれる理由などについて見ていきましょう。
作品について

出典:ITALIA.IT
所蔵はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。
併設されているドミニコ会修道院の食堂に描かれた壁画です。
サイズは縦4.2m×横9.1mに及び、壁の高い位置にあるため、見上げながら鑑賞することになります。
レオナルド・ダ・ヴィンチが42歳頃、1945年~約3年かけて描いた、数少ない完成作品の一つです。
1980年には、教会と修道院も含めて世界遺産に登録されました。
この作品を依頼したのは、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァ。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を、一族の霊廟にしたいと考えていました。
教会修復の際に修道院を新設し、その食堂の壁画制作をレオナルドに命じます。

出典:HAPPY TO Wander
絵の上部に描かれているマークは、スフォルツァ家の紋章です。
大がかりな作品依頼や、芸術家への支援は社会的地位のアピールでもありました。
天才でも迷い、悩んだ
制作の様子は記録が残っており、現場を見物する人々もいたようです。
レオナルドの制作はマイペースで、朝から飲まず食わずで描く日もあれば、一日中考え込んで描かない日、突然やってきて少しだけ描いて去る日もありました。
特に重要な登場人物であるキリストとユダの顔については、最後まで描き方に悩んでいました。
修道院長が作業を急かしに来ますが、レオナルドは「描いていない間にアイディアが熟成するのだ」と主張。
挙句、「ユダの顔のモデルに採用しようか」とあしらう始末でした。
当初はそのように進めていた仕事でしたが、やがてペースアップを余儀無くされます。
作業開始から2年が経った1497年、ルドヴィコの妻ベアトリーチェが亡くなったのです。
彼女がこの教会に埋葬され、頻繁に修道院を訪れるようになったルドヴィコは、いよいよ制作を急ぐよう命じます。

ルドヴィコ・スフォルツァの肖像
こうしてレオナルドとしては比較的早く、《最後の晩餐》が完成しました。
ちなみに、ベアトリーチェはマントヴァ公妃イザベラ・デステの妹です。このつながりが、後にあの名画《モナ・リザ》にも関わってきます。

モナ・リザとは?|万能の天才が描いた謎と魅力を解説
何を描いているのか
キリスト教における『最後の晩餐』とは、イエスが処刑前日に弟子たちと食事をする場面を指します。
そしてその際、イエスの発言により動揺が広がっていく様を描き出しています。
“「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。”
引用:ヨハネによる福音書13:21-22
「主よ、それは誰ですか」「まさか自分ではないでしょう」と、弟子たちは驚きや悲しみをあらわにします。


レオナルド・ダ・ヴィンチ 『最後の晩餐』より
裏切りとは、弟子の一人がユダヤ教徒側にイエスの身柄を売ったことです。
“祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである。そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。”
引用:ルカによる福音書22:2-3
律法を遵守し、選ばれた者のみが救われるとするユダヤ教に対して、平等な神の愛(アガペー)を説いたイエスは異教を広める反逆者とみなされました。
民衆の支持を集めはじめた彼を、祭司長たちは警戒していたのです。
そんな折に話を持ち掛けたのが、イエスの弟子・ユダです。
“すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。 ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。”
引用:ルカによる福音書22:4-6
イエスはユダの裏切りも、自分がまもなく処刑されることもわかっていました。そして夕食の席に着き、いくつかの予言を告げました。
その後捕らえられたイエスは、ユダヤ総督ピラトによって十字架刑に処されます。
なお、《最後の晩餐》と反対側の壁には、ドナート・モントルファーノの《磔刑図》でその様子が描かれています。

ジョヴァンニ・ドナート・モントルファーノ「磔刑図」/ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
ユダが裏切った理由については、サタン(悪魔)に取りつかれたという記述があるのみです。
しかし、最後には行いを後悔し自殺しています。
そのためお金目当てではなく、理想の救世主像から離れていくイエスに失望したためと考えられています。
最後の晩餐、そのメニューは?
彼らが食べているのは、ユダヤ教の記念日である「過越祭」の料理とされます。
【過越祭(ペサハ)…ユダヤ歴ニサンの月(3~4月)の14日目に行われる祭事。かつてイスラエル人がエジプトから脱出し、国家を築いたことを記念する。新年の祝い。】
翌日からの除酵祭を含め、約1週間は酵母を入れないパン(マッツァ)を食します。
また、子羊肉・苦菜・卵などを乗せたプレート(セデル)が伝統的なメニューです。それぞれの食材に意味があり、かつて奴隷だったイスラエル人たちの苦しみに由来しています。

出典:ISRAEL
絵具の剥離で見えにくい部分も多い中、近年の洗浄作業により、お皿の一つにうなぎが描かれていることがわかりました。
少し意外ですが、当時のイタリアでもうなぎは食べられており、レオナルドが買い物リストに「うなぎ、アンズ」と書いていたそうです。
6世紀のモザイク壁画『最後の晩餐』にも、魚料理が描かれています。

『最後の晩餐』サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
魚はイエスを表すシンボルです。
ギリシャ語で「イエス・キリスト・神の子・救世主」と書くと、頭文字がICHTHYS(イクトゥス)=魚という意味になります。
キリスト教信仰が禁止されていた頃には、魚をイエス、羊を信者のメタファーとして描いていました。

出典:Adobe Stock
また、この『最後の晩餐』は現在もキリスト教の儀式において、重要な意味を持ちます。
“一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。”
引用:マルコによる福音書14:22-24
パンはイエスの体、杯に入っていたワインはイエスの血を表します。聖体拝領の際にパンやワインが用いられるのは、このためです。
描く時のルール

出典:Adobe Stock
② イエスと十二使徒全員が登場すること
③ ユダは他の人物と差別化すること
全員をバランス良く配置しつつ、ユダを際立たせるのは難しかったようです。

アンドレア・デル・カスターニョ 『最後の晩餐』/ サンタポッローニア修道院

ドメニコ・ギルランダイオ『最後の晩餐』/ オンニッサンティ教会
“弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。”
引用:ヨハネによる福音書13:23-26
“イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。”
引用:マルコによる福音書14:20
新約聖書は記者が複数人いるため細かな部分は異なりますが、これらの記述にも忠実に描くとすれば、
④「愛しておられた者」=ヨハネは、イエスに寄り添う
⑤ ユダはキリストと同じ鉢に手を伸ばしている
という描写になります。
⑤の表現が難しい場合、銀貨の入った袋を持たせたり、一人だけ目線を逸らすといった方法も取り入れられました。
レオナルドの描いたユダも袋を持ち、左手をイエスと同じ鉢に伸ばしていますが、下絵の段階では手前に座らせる案もあったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『最後の晩餐』より
かつてキリスト教美術の絵画は、文字が読めない人の為に聖書の内容を伝える役割を持っていました。しかしレオナルドは、ルール以上に自分が理想とする構図を優先します。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『最後の晩餐』/ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
レオナルドの《最後の晩餐》では、光輪が描かれておらず、ヨハネはイエスに寄り添っていません。
弟子たちは3人一組で4か所に配置され、ヨハネとイエスの間は不自然に空いています。
そして人物の動きをダイナミックに、かつ斬新な配置で描いているにも関わらず、全体的にはまとまって見えます。
これは後程ご紹介する技術と計算により、画面を安定させているからです。
『ダ・ヴィンチ・コード』の解釈

出典:Sony Pictures
トム・ハンクス主演、2006年公開の映画『ダ・ヴィンチ・コード』。
原作はダン・ブラウンのサスペンス小説で、シリーズの『天使と悪魔』『インフェルノ』も後に映画化されました。
殺人事件と宗教、謎解き、美術作品が絡み合い、日本でもブームとなりました。
この作品では、登場人物が《最後の晩餐》について考察するシーンがあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『最後の晩餐』より
・イエスの右隣に座っているのは、ヨハネではなくイエスの妻『マグダラのマリア』である。
・二人の間には、聖杯を意味する逆三角形の空間が描かれている。
・イエスの子孫はマグダラのマリアが産んだ娘、サラである。
・レオナルドはイエスの血脈の秘密を《最後の晩餐》に描きこんだ。
上記がおおまかな内容です。
ストーリー上、主人公はこの説に反論していますし、あくまでもエンターテインメント作品であることは前提です。
宗教観を揺るがすような攻めた内容であり、上映禁止になったり反対運動が起きた国もありました。
確かにヨハネが中性的に描かれていることや、イエスと対になって見える点には納得でき、フィクションとはいえ頷ける部分もあります。
賛否が分かれる作品ですが、「レオナルド・ダ・ヴィンチ=謎」のイメージが広く浸透したきっかけになっています。
最後の晩餐を描いた技法

出典:Adobe Stock
壁画制作では、主にフレスコ技法が用いられていました。
フレスコとは「新鮮な」(=フレッシュな)を意味する言葉で、生乾きの漆喰に描くことからそのように呼ばれます。
【フレスコ画の主な手順】
① 下地を壁に塗る
② デザインの下絵を転写する
③ 描く範囲のみに漆喰を塗る
④ 漆喰が乾ききる前に、水で溶いた顔料を使って描く
漆喰の乾燥時に顔料が固着するため耐久性に優れていますが、一度描いたところは修正が難しく、素早さと正確な技術が必要です。
また、その日に描く範囲(ジョルナータ)を決めてから作業するので、計画性も求められます。
しかし、絵具を重ね塗りしたり、熟考しながら描くタイプのレオナルドに、フレスコ技法は合っていませんでした。
そこで、試行錯誤しながらテンペラ技法と油彩を使うことにします。
テンペラはラテン語の「temperare(混ぜ合わせる)」が語源で、乳化剤となる物質と混ぜた顔料で描く方法です。
【レオナルドの手順】
① 白い粉で壁を覆う
② 白鉛を下塗りする
③ 卵やニカワ、植物性油などで溶いた絵具で描く
これにより理想の色や濃淡は表現できましたが、絵具が壁に定着せず、間もなく剥離が始まります。
高度で斬新な技術の組み合わせ
レオナルドの作品には、それまでの『最後の晩餐』とは一線を画す技術・科学的知識が盛り込まれています。
① 徹底的な人体研究
《最後の晩餐》は、人物の表情や動作が生き生きと描かれていることが特徴です。
筋肉の仕組みや構造を理解した上でポーズを作り、場面をドラマチックに見せています。
足の素描には、指の長さの割合が等分であるという旨のメモが残っています。
人体に関して、その比率まで正確にとらえていたことがわかります。

出典:italian renaissance art
レオナルドは著書『絵画論』の中で、「四肢はその人物の感情に従っており、それを表現できなければならない」と力説しています。
感情・気質と表情筋の連動、人相の観察を熱心に行っていたことが記録からも伝わります。
また、ミラノの工房時代に耳の不自由な人と一緒に働いたことで、しぐさから意図を読み取る重要性に触れたようです。
② 遠近法の組み合わせ
景色や物体がどのように見えるか、レオナルドは科学的に理解しようとしました。
《最後の晩餐》では、イエスを中心に安定した構図、かつ臨場感のある画面にまとめています。その大きな要因が遠近法の組み合わせ(複合遠近法)です。

出典:cenacolovinciano
・線遠近法……イエスの右こめかみに釘を打ち、そこに結んだ糸を放射状に張って消失点を設定。均整のとれた美しい構図を実現した。
・空気遠近法……窓から見える風景にも、遠くほど青く霞んで見えることを利用し奥行を表現。画面の奥へと引き込まれるような視覚効果で、神秘性を演出した。
・加速的遠近法……よく見ると天井はテーブルの幅より狭くなっており、不自然な部屋の形になる。これは舞台演出などに用いた手法で、奥のものを急速に縮小させて描くことで劇的な表現をした。
食堂を利用する修道士たちは壁画を下から鑑賞しますし、座る位置も左右それぞれです。その場合、正確な遠近感だけを取り入れると、歪んで見えてしまいます。
鑑賞者の視点を大事にしたレオナルドならではの表現であり、食器などが見えるようテーブルもやや手前に傾けて描かれています。
なお、真正面から観る際の最適鑑賞点としては、9m離れた位置が推奨されます。

出典:cenacolovinciano
科学的事実に則した部分と、あえて無視をする部分を組み合わせることで、鑑賞者の心を惹きつける工夫がなされています。
③明暗法による演出効果

出典:Adobe Stock
光学研究にも熱心だったレオナルドは、光と影の関係性を把握して立体的に表現しました。
夕食の様子を描いたはずですが、窓の外は明るい時間帯の風景になっています。
これは、明暗法(キアロスクーロ)を効果的に用いるためと考えられています。
コントラストで奥行きも強調され、光輪を描かなかった代わりに、差し込む光がイエスの神聖さを表しているように見えます。
それまで絵画や彫刻は職人仕事の一つでしかなく、社会的地位はそれ程高くありませんでした。
しかし、作品に学問を取り入れ昇華していった芸術家たちは、時代と共にその地位を向上させていきます。レオナルド自身も《最後の晩餐》をきっかけに、一段と評価を上げることになりました。
名画を守る 修復と保護の歴史
完成した《最後の晩餐》は大変素晴らしく、多くの人々を感動させました。
しかし、壁画には不向きな技法を使ったため、すぐに傷み始めます。
食堂ですから、料理の湯気などによる湿度変化は避けられませんでした。
1517年の時点で、既にカビの発生が報告されています。
これ以上剥離しないよう、修復士が膠や樹脂でコーティングするも、そのせいで埃を吸い寄せて黒く汚れ、通気性も悪くなりカビが増殖。元々塗られていた絵の具も剥がれてしまいます。

出典:Adobe Stock
その後もこの壁画の受難は続き、
・ドアを作るために穴が空けられ、絵の一部(キリストの足元)が失われる。
・食堂が厩舎に使われ、動物の呼気や排泄物で劣悪な環境となる。
・大洪水で2回浸水。
・修復の際、過度な補筆でオリジナル部分が見えなくなる。
・壁から剥がそうとして失敗、壁に亀裂。
・兵士が壁に石を投げたり、槍で突いたりした。
上記のような憂き目に遭ってきました。
さらに1943年、ミラノはアメリカによる空爆で被害を受けます。
しかし、《最後の晩餐》と《磔刑図》を描いた壁は無事。
なんとか作品を残そうと、修道士たちが土嚢を積んで保護した為でした。
荒れ果てた地に壁だけが残る様は神々しく、以後「奇跡の絵画」と呼ばれるようになりました。
天井の復旧までは雨風にも晒されながら、まさに奇跡的に今日まで残り続けています。
その後、1977〜1999年に洗浄作業が行われます。
費用17億円にのぼるこの国家的事業を、ピニン・ブランビッラが20年かけて担当しました。
これにより、過去の修復士が加筆した部分は除かれ、可能な限りオリジナル部分を取り戻すことに成功しました。
この洗浄作業により、イエスのこめかみの釘の跡、タペストリーに描かれた草花模様、イエスの口が開いていたことなどが明らかになりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『最後の晩餐』より
ちなみに、徳島県の大塚国際美術館では、《最後の晩餐》の修復前後それぞれの複製画を観ることが出来ます。
対面に展示されているのが印象的で、作品の歴史を思うとより感慨深くなりそうです。
ミラノで実物を鑑賞したい場合は、日時指定予約が必須になります。
窓口販売の当日券もありますが、おおむね予約で定員が埋まっているので注意が必要です。
鑑賞時間は15分と限られるものの、レオナルド・ダ・ヴィンチが向き合い続けた壁面を間近に観ることができ、とても貴重な体験になります。
まとめ
正確な描写と、あえてルールを無視する選択。両方を一画面にまとめあげた技術は素晴らしいものです。
天才と呼ばれるレオナルドも、自分のやり方や理想を貫くために試行錯誤し、時に失敗がありました。
また、絵画以外の経験が斬新な表現につながったことも、「人生に無駄はない」と勇気づけられる重要なメッセージです。
長い歴史の中、沢山の人の手によって守りぬかれ、現代の私たちも名画に触れることが出来ます。
そして、今なお保護や研究に取り組む人々のおかげで、その価値をより深く知ることができるのです。
興味を持った作品があれば、ぜひその裏側にも注目してみてください。

モナ・リザとは?|万能の天才が描いた謎と魅力を解説

絵画・アート初心者でも楽しめる!10,000円以下で購入できるアート20選

油絵・アクリル画をオーダーメイドしてあなただけのアート作品を。オーダー可能な作家や納品までの流れをご紹介