時を超えて繋がるロマン『琳派』って何?【日本美術史編】
投稿日:(月)

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こんにちは。コンテンポラリーダンサーのしょうこです!
今回は日本の美術史から、『琳派』について、ご紹介していきたいと思います。
国内の美術作品をよく見る方なら勿論ご存知かと思いますが、一般にはあまり聞き馴染みのない言葉ですよね。
かくいう私も、今回コラムの執筆依頼を頂くまではあまり聞いたことのないワードでしたが、調べていくと、琳派の作品群には、私でも見たことがあるような有名な作品も沢山。
古くは安土桃山時代から現代まで、人々を魅了し続ける琳派の世界、一緒にのぞいていきましょう。
琳派の始まり

琳派とは、安土桃山時代の後期から近代にかけ流行した流派です。琳派の作品には絵画や工芸品など、様々なものがあります。
琳派が決定的に他の流派と異なるのは、師匠から弟子へ教え伝えていくというプロセスを踏んでいないということです。
琳派の芸術家たちは皆、個人的に尊敬する芸術家を勝手に師と仰ぎ、直接の教えを乞うのではなく、作品から技術や技法を盗み学んでいく”私淑”というスタイルで大成していきました。
師匠と弟子が時代を超えて繋がっていく、なんだかロマンがあって面白いですよね。
私淑によって紡がれて行った琳派では、必ず取り入れなければいけない技術や厳しい決まりなどはありません。
技法や技術の解釈は作家によりちょっとずつ異なるため、作品には作家それぞれの個性が大きく反映されるという特徴もあります。
これも、琳派作品を見るときに楽しいポイントの一つです。
そんな自由な琳派ですが、その文脈の中では様々な技法が実験され、取り入れられてきました。
代表的なものをいくつかご紹介します。
琳派の特徴①【たらしこみ】
たらしこみとは、ベースに薄い色の画材を塗り、水分を持たせた後、乾いてしまわないうちに次の色をその上から垂らすように乗せていく技法です。
こうすることで絵の具が波紋のように広がったり混ざり合ったり滲んだりするため、水や煙、雲などの表現をすることによく使われた、伝統的な日本画の技術です。
現在では、水彩画やネイルアートでも用いられています。

琳派の特徴②【大和絵をベースとした画風】
大和絵とは、遣唐使が廃止され、大陸の影響がなくなっていった平安中期から後期にかけて発展していった、日本風の絵画のこと。
中国から来た文化を日本向けに洗練していったものです。
琳派の作品はこうした大和絵をベースとして作成されていました。

一方、同じ時代に栄えていた狩野派の作品がこちら。狩野派では唐絵という中国から伝わった様式の絵画をベースに、大和絵の要素を加えるという手法でした。

構図が少し似ている二枚ですが、比べて見ると、琳派の作品からは柔らかさや親しみやすさを、狩野派の作品からは、荒々しい力強さやかっちりとした雰囲気を感じませんか?
個人的には、メインモチーフの目元の雰囲気がだいぶ違うような気がします。神様や雷神様も、よく見るとなんだか可愛らしいような...?
この柔らかさ、独特のユルさが、日本っぽさなのかもしれません。
国風文化が育った時代、日本には仮名文字(ひらがな・カタカナ)が登場しました。
「漢字って、なんか画数多いし書くの大変だよね、省略しちゃお!」みたいな感じでどんどん簡易的に、柔らかい曲線を多く取り入れてできた仮名文字。
日本にはこんなにも古くからデフォルメ・省略の文化があったんですね。
このような文化は現代の漫画や若者言葉にも通ずるところがあるような気がします。

琳派の特徴③【ふんだんに使われた余白と金箔銀箔】
さて、国風文化の延長に誕生した琳派の絵画ですが、一方この頃の西洋画を見てみると、写実主義が流行していた時代。背景には見たままの景色が細かく描き込まれています。
先ほど見た風神雷神図屏風には、タイトルの通り風神と雷神しか描かれていなかったのに!改めてみると、ギャップの大きさに驚きます。
何故こんなにも”描かない”のか。
日本には古くから、余白の中に奥行きや美を持たせる文化がありました。
枯山水や俳句、歌舞伎の間、なんかもそうですね。
琳派のゆったりと設けられた余白からは、実際に描き込まれた背景がなくとも、物語や時の流れを感じさせられ、見るものを感動させる力があるように思います。
また、著名な琳派作品の多くには背景の余白部分にこれでもかと言わんばかりの金箔・銀箔があしらわれています。
一見ゴージャスなこのキンキラの背景、実は意味があったとか。
当時は現代のようにいつでもどこでも部屋中が明るいなんてことはなく、日が暮れれば屋敷の中は真っ暗。
光源の限られた当時の屋敷内で、金色の屏風は光を跳ね返し拡散する効果においても重宝されていました。
暗がりの中にある金屏風は、きっと現在の高画質でみる画像よりもずっと奥深く品良く輝いていたのかもしれません。
想像するだけでも美しいですが、当時の景色を実際に見て見たくなってしまいますね。

琳派の歴史を繋いだ人物たち
ここからは、琳派を作り上げ大成させて来た代表的な人々をご紹介していきます。
本阿弥光悦 (1558-1637)
琳派の生みの親として知られる本阿弥光悦は、書家・陶芸家・画家・茶人とマルチな才能で活躍。数々の国宝級の作品を残してきました。詳しい出会いは不明ですが、ひょんな事から、当時まだ駆け出しだった俵屋宗達という画家だった才能を見出し、彼と協力して作品を制作して行くようになります。その代表作と言われているのが鶴下絵三十六歌仙和歌巻。

絵:俵屋宗達 書:本阿弥光悦 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』/ 京都国立博物館蔵
宗達が下絵を描き、その上に光悦が和歌を筆で重ねたものです。この作品は現在、重要文化財に指定されています。
彼は江戸時代初期に京都の鷹峯(たかがみね)という土地に「光悦村」という芸術村を創設し、様々な分野の工人や芸術家を集めました。金工、陶工、蒔絵師、画家、織物職人など、100人以上が光悦村に集住し様々な芸術家同士が交流、多様な芸術分野の融合も起こったと言います。
俵屋宗達(1600?-1630?)
宗達は京都の上層町衆出身で、若い頃は「俵屋」という工房を営み、扇や屏風、料紙などの紙製品全般の装飾を手がけていました。
彼は先ほど琳派作品の特徴として挙げた様々な技術を発明した人物でもあります。
発明した主な技術
□豪華な金銀箔を多用した装飾的な表現
□独自の「たらしこみ技法」による瑞々しい描写
□大胆な構図と色彩感覚
代表作には、国宝《風神雷神図屛風》や重要文化財《蔦の細道図屛風》があります

本阿弥光悦と俵屋宗達の二人は、琳派の創始者として位置付けられています。
尾形光琳(1658〜1716)
尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家であり工芸家です
1658年に京都の裕福な呉服商「雁金屋」の次男として生まれました。
彼は、最初に「私淑」という形で俵屋宗達の作品から学び、この世に琳派というものを作り出した人です。
彼も光悦と同じく、絵だけではなく蒔絵や陶器の絵付けなど、幅広い分野で創作を行なっていた事も、琳派がジャンルにとらわれず幅広い枠組みで発展していった結果に繋がっているのかもしれません。
因みに、光琳の実の弟である尾形乾山は、京焼の伝統を踏まえながら琳派のデザイン性を取り入れた大胆な作風で人気を博していました。
光琳の絵と、乾山の焼き物コラボの作品がこちら。


光琳は遅咲きの天才とも言われ、44歳頃から本格的に画家として活動を始め、59歳で亡くなるまでの約15年間で多くの名作を生み出しました。
代表作には『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』『八橋蒔絵螺鈿硯箱』などがあり、これらの作品の多くは国宝や重要文化財に指定されています。光琳の独創的なデザインは「光琳模様」として知られ、現代の日本美術にも大きな影響を与えています


酒井抱一(1761-1829)
酒井抱一は、姫路藩主酒井忠以の弟として裕福な家庭に生まれました。
幼い頃から芸術に親しんでおり、青年時代には遊興にふけり 浮世絵や狂歌にものめり込んでいたと言います。
やがて37歳という若さで出家し、「抱一」の号を名乗るようになります。
この号は”老子”の一節「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」
(複雑な理論や多くの規則ではなく、最も基本的な道徳原則を守ることで、聖人は人々の模範となる、という意味)に由来していたそう。
彼は出家したのと同時期くらいから光琳に私淑し始めたと言われています。
実は彼が光琳作品と出会ったのはなんと幼少期。光琳は酒井家に一時期召し抱えられていたことがあったようで、彼の家には光琳の作品が残っていたと言います。
彼が出家したのと同タイミングで刊行された、『絵事鄙言(かいじひげん)』という画論書では、宗達や光琳らを「本朝の南宗(文人画)」として捉え、職業画家ではなく自由な意志で絵を描く画家として評価しています。この解釈が、抱一の光琳学習に大きな影響を与えたという話も。
彼の代表作としては『夏秋草図屏風』、『十二ヶ月花鳥図』シリーズ、『白蓮図』などが挙げられます。

酒井抱一『十二ヶ月花鳥図』高精細複製/ スミソニアン国立アジア美術館蔵
重要文化財に指定されている『夏秋草図屛風』は、光琳が描いた『風神雷神図屛風』の裏面に貼る作品として依頼された作品です。
抱一は、この作品を創作することで、光琳から琳派を引き継ぐものとしての覚悟を表したとも言われています。
長い時を越えて作品がコラボレーションするのも、琳派ならではなのかもしれません。
また、抱一は新たに江戸琳派を立ち上げたことでも有名です。根岸に「雨華庵」という画房を構え、弟子たちと共に江戸琳派の画風を確立していきました。
江戸琳派では、光琳までの琳派の流れを汲み、そこに江戸風の粋や繊細な写実表現、叙情性を取り入れました。江戸琳派の始まりによって、それまで京を中心に発展してきた琳派が江戸にも広まり、一躍大ブームに。抱一は東西の文化交流に於いても一役買っていたのですね。
鈴木其一(1795-1858)
鈴木其一は幼少期から酒井抱一に師事し、18歳のとき内弟子となり、絵画、茶道、俳諧などありとあらゆる芸術を抱一から学びました。 其一は、その当時かなり忠実に抱一の手法を勉強しており、時には代作を行うほどだったとか。
しかし抱一の死後、33歳で一代絵師として独立、抱一や江戸琳派の縛りから解放された其一は、独自の作風について研究を始めます。 40歳を目前にした時期、彼は西に絵画修業の旅に出ることを決め、その際に触れた自然の美しさに心を奪われ、写生に熱心に取り組むようになりました。
これらの経験を通じて、其一は立体的で写実的な構成を取り入れつつ、琳派らしい平面性も残した独自の表現を模索するようになりました。その結果、『夏秋渓流図屏風』のような、立体感と平面性を融合させた作品が生まれます。


実は、彼の作品の国内での評価はかなり低く、今まで重要な人物とはされてこなかったため、作品の流出なども多く文献があまり残っていません。
しかし対照的に、海外、特にアメリカの日本美術愛好家からはとても高く評価されていた其一。琳派を代表する画家として紹介されていました。
アメリカでの高評価に引っ張られ、国内でも「奇想の絵師」と評された、江戸時代を代表する奇想天外な6人の絵師たちの選定見直しがされたことをきっかけに、
琳派史上に異彩を放つ絵師として注目を集めるようになりました。
彼は琳派の系譜では珍しく師に直接教えを受けて修業していたという点と、
その装飾性やデザイン性に富んだ作風は現代人の感性にも響くものがあり見やすく、当時としてはかなり革新的、独創的であったことから
近代日本画の先駆者とも評されている点が、大きな特徴と言えます。
現代に息づく琳派の系譜
古く本阿弥光悦から始まった琳派の流れは、現代に活動している琳派画家たちに受け継がれています。 当サイト、アート通販サイトWASABIにも、現代に生きる琳派作家の方々によるアートを見たり、購入していただくことができます。
グローバル化が進み、多種多様な国の文化様式が国内に溢れる現代だからこそ、
改めて、日本で生まれ独自に発展してきた文化芸術に触れてみることも大切かもしれません。
京都で始まり、江戸に普及してからも様々な要素を含み変化してきた琳派。
今や世界有数の大都市「東京」となったこの地で、琳派作家たちは何を思い、どのような作品を創作するのか。
この機会に是非一度、ご覧になってみてはいかがでしょうか。