『ひまわり』を描いた画家、ゴッホってどんな人?
投稿日:(木)

目次
こんにちは。コンテンポラリーダンサーのしょうこです!
今回は「ひまわり」で有名なオランダ生まれの画家、フィンセント・ファン・ゴッホについて深掘りして行きます。
よく「天才」とか「孤独」、「奇人」なんていうワードを見出しに使われることが多い彼ですが、実際はどんな人だったんでしょう。
知れば知るほど魅力的な人物、ファン・ゴッホ。彼の人生の軌跡を、一緒に覗いてみましょう。
第1章 フィンセント・ファン・ゴッホ
牧師の息子
今や世界中に知らない人はいない程有名なフィンセント・ファン・ゴッホ。
彼はオランダの南部にあるズンデルトで牧師の息子として生まれました。
弟テオドルスとは親友のように仲良し。
幼い頃から自然豊かな村で育ち、昆虫や鳥の観察をするのが大好きでした。一人で森を散策するような、自由奔放な子供だったようです。
絵の才能はすでにその頃芽吹き始めており父親の誕生日にはこんな素描も送っています。
これを描いたのは、彼が弱冠11歳のとき。
小学五年生でこれだけ描けるって、めちゃくちゃすごいですよね。
素晴らしい才能を持ったフィンセントでしたが、その素行は周囲の人たちの手を焼かせるものでした。動植物の観察が好きで、4歳年下の弟を可愛がる優しい兄という一面を持ちながら、強い衝動性と突発的で時々激しい癇癪を起こすこともあった彼。時には鳥の巣を丸ごと持って帰ってきて一面羽だらけ...なんてこともあったとか。
小さな頃から繊細な感性を持っていた彼にとって、周囲の人間とうまくやる、ということはとても難しいことだったようです。その後も生涯において、対人関係という壁がつきまとうことになります。
13歳で高校に入学したフィンセント。元々学業には優れていた彼でしたが、卒業間近で自主退学してしまいます。理由は金銭的な問題だったのか、人間関係の問題だったのか...定かではありません。
学校をやめた彼は、16歳で叔父さんのコネクションを頼りグーピル商会に就職します。
このグーピル商会というのが、当時ヨーロッパ各地に支店を構える大きな会社で、彼と同姓同名のフィンセント・ファン・ゴッホ叔父さん(セント叔父さん)はこの会社の経営陣に名を連ねている、やり手の実業家でした。フィンセントはここで画商として働きます。

グーピル商会 ハーグ支店の様子
サラリーマン・フィンセント
じきに、弟テオもグーピル商会で働くことに。
大好きな弟と一緒に働けることを心底喜んだ彼はその感動を手紙にして送っています。なんだか可愛いですね。
商会で働く日々は忙しくも充実しており、ロンドン・パリ・ブリュッセルなど各地を飛び回っていました。
あのゴッホにサラリーマン時代があったという事実には、かなり驚きです。
イケイケサラリーマンだったフィンセントは、ある日、下宿先の娘に恋をします。
特別な運命を感じて告白!...をしますが、相手にはすでに婚約者がおり、フィンセントの恋は一瞬にして玉砕してしまったのでした。
失恋から仕事への熱も一気に失せてしまい、勤務態度も目に余るものに。叔父さんの計らいも虚しく、23歳の年の春にとうとう解雇されてしまいます。
実は女性に惚れっぽかったフィンセント。運命を感じたら脇目も振らずに猛アタックしてしまう性格でした。ですが、相手に気を使って思いを伝えるということが苦手だったようで...。人付き合いという壁に、彼はまた苛まれてしいまいます。
大好きな彼女も、画商の職も失った後、彼は聖職者になることを志します。伝道師として貧しい人たちに救いの手を差し伸べようと、強い熱量と共にキリスト教にのめり込んで行くことになります。
フィンセント、転職する。
ベルギーのボリナージュ炭鉱地域で見た坑夫たちの生活は、フィンセントの心を一際 震わせるものでした。
劣悪な労働環境に 激しい肉体労働。賃金は下がり続け、炭塵による病気や、いつ爆発するかもしれないという死への恐怖と隣り合わせの中、ただ淡々と毎日炭鉱で働き、生きている坑夫たちの実態は 言葉を失うほどに哀れなものでした。
しかしフィンセントにとって、坑夫たちの姿は他のどんなに立派な聖職者たちよりも、最もキリストに近い場所に立っているように見えたと言います。
彼は、特に貧しい坑夫たちの街に赴き、自らの衣服や金品を全て彼らに分け与え、自分はボロボロの服を着て、掘っ立て小屋に住みました。
炭鉱事故の時は自分の下着を破って患者の包帯にしたり、チフスが流行した時には一人、食事もとらずに患者たちを看病して回る徹底ぶり。
彼の自らの犠牲を厭わず人々のために尽くす姿勢は本当に素晴らしいものでした。”誰も真似できないほどに。”
彼の善行は、教会から「行き過ぎている」と評価され、ついに伝道師の立場からも追われてしまうことになります。
更に転職する 〜ついに画家の道へ〜
聖職者としての志も絶たれた彼にとって、手元に残ったものは絵筆だけでした。
立場を失ってからも、彼は坑夫たちを忘れることができませんでした。彼らの生活を描き残すことは、フィンセントにとって愛と尊敬と救いを伝える手段だったのかもしれません。
この頃から、弟のテオは兄の生活と芸術活動を支えるため、フィンセントに仕送りを始めます。
フィンセントとテオは本当に仲の良い兄弟で、逐一手紙を書いてはお互いの近況や考えを伝え合っていました。ですが、どれだけ仲がいいと言っても、30を手前にして弟の脛齧り(すねかじり)をするのは想像するだけでも心苦しい状況ですよね。
なんとかテオに対して感じる負い目から逃れようと、彼は描いた絵を全てテオに送りつけ、「私は君からもらっている金を自分で稼いだと思いたいのだ」と、勝手に買い取ってもらっていたようです。
それでも仕送りをし続ける、兄に激甘な弟テオ。そんな関係性とは対象に、フィンセントと両親との間には、次第に確執が生まれて行きます。
両親は20代後半にもなって定職に就かない彼を持て余していました。特に父親とはそりが合わず、衝突が続きます。ついに大喧嘩をして家を飛び出したフィンセントはオランダ、ハーグの地へ移ります。
土地の名前を冠するハーグ派という画家たちに影響を受け、土地を転々としながらも、彼は農民の姿をひたすらデッサンし続けました。
5年間もの期間、働く人々をデッサンを続けた彼の集大成とも言えるのがこちらの作品。
暗い部屋に灯る僅かな光の中、質素な茹でただけのじゃがいもの夕食を分け合う家族。彼らがフォークを持つ手はゴツゴツとして、日常的な炭鉱での重労働を想像させます。その表情や全体の構図からは彼らを取り巻く先の見えない社会の状況や、彼らが慎ましく1日1日紡いできた生活を想像させるような一枚ですよね。
作品自体は画面が暗すぎる、酷評されることもしばしばあったようですが、彼自身はこの作品をこれまで描いた中で最高傑作だと言っていたようです。
筆者も、この絵はフィンセント・ファン・ゴッホの原点のような、彼が何を美しいを思い、どんなものを大事にしたい人なのかがギュッと詰まっているように思えて、この作品はお気に入りです。
第2章 色彩の世界へ
花の都パリ
その頃、なんとグーピル商会のパリ支店長に出世していたテオからの手紙で、パリには今、印象派という新しい画風が流行っているらしい、ということを知ります。
まだ見ぬ印象派絵画に興味津々なフィンセントは、なんとアポなしでテオの家に押し掛け、そのまま転がり込むようにして夢のパリ生活をスタートしました。
当時のパリでは印象派が大ブーム。鮮やかな作品の数々に触れた彼の絵は、どんどんと太陽の光を飲み込んで行くように鮮やかになって行きます。
パリには豊かな芸術と、仲間たちがいました。
重鎮のピサロや若きロートレック、シニャック、スーラ。貧乏な画家たちを支援していたタンギー爺さんの画材屋には沢山の芸術家が集い、それまで一人で絵を描いていたフィンセントにとっては初めて、同志や仲間、友人に囲まれて絵を描くという体験をする時間でした。
パリで集った仲間たちと開いたグループ展で、彼は運命の出会いをすることになります。

運命の出会い
そのグループ展にふらりと立ち寄ったのはポール・ゴーギャン。彼はフィンセントのひまわりの絵を高く評価し、自分の作品と交換したいと申し出ました。
このひまわりはあの有名なひまわりとは違う一枚です。

自分の絵を弟のテオ以外に褒められることは、彼にとってほとんど初めてのことだったでしょう。それも同業の画家から。
フィンセントはひどく感激して、ゴーギャンを慕うようになります。二人はそれからも作品や手紙を交換するようになり、交流を深めていきます。
パリにやってきてことで、彼の生活は刺激と感動に溢れるものになりましたが、
一方で田舎の農村出身のフィンセントにとって次第に都会の喧騒は息苦しいものになって行きました。
日々のストレスのせいかアルコールに手を出すようになった彼。その頃から感情の起伏もだんだんと激しくなって行ってしまいます。
テオドルス・ファン・ゴッホ
あれだけ仲の良かった兄と弟は、その頃からよく衝突するようになります。
テオはその頃の兄を「まるで彼の中には二人の人間がいるよう」と称しており、一方で心優しく繊細な芸術家だが、もう一方で、自我が強く気難し屋で、突然爆弾のように癇癪を撒き散らす兄に、さすがのテオも手を焼いていました。
喧嘩の絶えない兄二人の様子を見かねた妹は、「どうかフィンセントと離れてください」と手紙を送りますが、「彼は間違いなく芸術家だ。私は彼を支えなければならない」と、それでもテオはフィンセントの画家としての才能を信じ続けていたのでした。
このままでは自分はダメになると心の内では理解していたフィンセントは、自らテオの家を出る決心をします。
あれだけ手を焼いた存在でしたが、フィンセントが出て行ったアパートに一人残されたテオは、その寂しさを妹への手紙に綴っています。
「兄さんのような人はそうそういない。彼がどれだけ物をよく知っていたか、世の中をわかっていたか。彼は長生きをすれば必ず世の中に認められるはずだ。」
幼い頃から仲の良かったこの兄弟の絆は、家族と離別した兄の唯一の理解者である弟、という形に変化し、精神的・経済的な依存関係を孕みながら、時間を経るごとに強く複雑に育って行きました。
二人はその生涯を通して600通以上もの手紙を交換していたとされています。
ザッキン作 フィンセントとテオの銅像
フィンセントの出生地であるズンデルトには、フィンセントとテオをかたどった銅像があります。
二人の胸のあたりには空洞が空き、鎖のように体同士が組み合わさっているかのような、二人の境目が融合したようにデザインされています。強い兄弟愛を表現するとともに、ほんのりとグロテスクな印象も残す作品のように見えます。
黄色い家
テオに別れを告げ、フィンセントが向かった先は南仏の街、アルルでした。
当時彼が大好きで集めまくっていたのが日本の浮世絵。特に歌川広重の作品に夢中で、いくつかの作品を模写して残したりもしていました。浮世絵はその頃フィンセントだけでなくパリでかなり流行しており、独特の平面表現や、実線で縁取りする手法を取り入れた画家も多くいました。


浮世絵では、描かれている人物に影を描き入れません。それを見て、太陽がこの国の真上にあるから影ができないんだ!と勘違いした彼は、日本は日の光が溢れる、大層暖かい国と思い込みます。
パリよりも温暖な気候のアルルに越した彼は、ここは日本みたいだ!(日本みたいに暖かい)と大喜び。
彼はそこで、1階がアトリエになっている小さな家を借ります。(勿論、テオの支援金で!)名前はシンプルに見たままを形容して、「黄色い家」。
パリで、友人たちと豊かな交流を経験したフィンセントは、「個人個人が独立し、互いに批評し合う関係では芸術は育たない。理想を共有できる集団での創作活動こそ、より洗練された作品を生み出すことができる!」、という理念の元、黄色い家を拠点とし、「南仏派」を立ち上げよう、と画家仲間たちに共同制作の誘いの手紙を送ります。

パリで運命的な出会いをしたゴーギャンにも、ぜひこの画家集団の取りまとめ役として参加してほしい、と熱烈な手紙を送りました。
第3章 友よ
『ひまわり』
ゴーギャンの元に届いたのはフィンセントからの手紙だけではありませんでした。
できる弟テオは、兄の企てを頓挫させないべく、「月々の手当、交通費、家賃、画材代」の支給について、こっそりとゴーギャンに案内の手紙を送っていました。
実はちょうどその頃、お金にとても困っていたゴーギャンは、二つ返事でアルル行きを承諾します。
弟の手回しがあったとはつゆ知らず、ゴーギャンがくるぞ!と大喜びのフィンセント。
ゴーギャンの部屋に飾るために描いたのが、かの有名な「ひまわり」でした。
アルルに来て体いっぱいに浴びた太陽の温度。その象徴としての花、ひまわり。奇しくもゴーギャンと初めて会ったあの日、二人を導いたのもひまわりの絵でした。
これから集まる画家たちを一本一本のひまわりになぞらえ、それらをフィンセントの名前が刻まれた「黄色い」花瓶に挿す。
彼はゴーギャン到着まで同じ構図のひまわりの絵を何枚も何枚も描き続けて待ちました。
フィンセントにとって、新天地アルルでの未来がどれ程胸を躍らせるものだったのか。ゴーギャンにたった一度褒めてもらったあのひまわりが、彼の中でどれ程大切な支えだったのか。
生き生きと情熱的に踊るひまわりの絵を見ると、彼の期待や未来への展望が、言葉以上に伝わってくるような気がします。
ゴッホとゴーギャン
ついにゴーギャンが黄色い家に到着し、彼らの待ちに待った新生活がスタートしました。
この二作はゴッホが描いた二人の椅子の絵。
ゴッホは尊敬するゴーギャンの座る立派な肘掛け椅子と、対象に、自分には簡素な木材と藁の椅子を描きました。お互いの創作について朝から晩まで語り合い、思う存分絵を描き続ける日々はそれはそれは楽しいものだったに違いありません。
すぐに意気投合した二人ですが、その創作スタイルは真逆。
フィンセントは目で見たものを詳細に観察し、ありのままを描く派。
ゴーギャンは見た景色を題材に、頭の中でイメージを膨らませて描く派。
フィンセントは彼の想像力の世界をほとんど崇拝するように尊敬していました。勉強熱心なフィンセントは、自分も彼の手法に則って、想像で絵を描くことを試してみますが、やればやるほどしっくりきません。
次第に二人の意見や主張の歯車は噛み合わなくなって行きます。
ゴーギャンは、自分を慕う後輩フィンセントを完全に下に見ていたようで、フィンセントの絵を指摘し始めたり、自分の考えをつらつらと説くようになったり。
一方フィンセントはというと、彼も彼で結構我が強いタイプ。どれだけ尊敬している先輩でも、思うことは歯に絹着せずバンバン指摘します。これに腹が立ってくるゴーギャン。
互いに強い個性と自我を持つ二人は度々衝突することが増え、最後には火花の散るような激しい議論を延々と続けたと言います。
二人の共同生活は間も無く破綻状態に。やっと手に入れた仲間と、未来への展望は跡形もなく崩れてしまいます。このことはフィンセントを精神的にも追い詰めて行き、更に間の悪いことに 唯一の理解者だった弟テオが婚約したという報告が入り、彼は冷静ではいられない状態でした。
弟の優先順位第一位を常に独占していたフィンセントにとって、唯一の理解者でありパトロンであった弟の婚約報告は、彼からのサポート終了を想像させる恐ろしい知らせでした。
テオとゴーギャンは彼の人生において唯一心を許せる相手でしたが、その二人をいっぺんに無くしてしまうことへの恐れは、彼のアルコールへの依存を助長して行きます。
さようなら、ゴーギャン
フィンセントがついに手を出したのは「アブサン」。当時お金のない芸術家の間で流行っていた、安価で手に入る かなり度数の高いリキュールで、すぐに現実逃避をさせてくれる恰好の逃げ場でした。
ですがこの酒には強い中毒性と大麻に似たような幻覚作用があったとされており、当時流通していたアブサンは現在すでに販売禁止となっています。
幻覚作用のせいなのか、二人の間に決定的な何かがあったのか、フィンセントはある夜、散歩に出たゴーギャンにカミソリで襲いかかろうとします。
それが決定打になり、ゴーギャンはアルルを去ることを決心します。
当時フィンセントの心は何を感じ、どのような景色を見ていたのか、それは彼以外知る由もありませんが、この後起きた「耳切り事件」は世界中が知る有名な事件です。
その後家に帰ったフィンセントは、手に持っていたカミソリで自分の左耳を切り落とし、布で包んだ耳を娼館ので働く女に「大切に持っていて欲しい」と手渡します。
翌朝、通報を受けた警察が彼の家に着く頃、フィンセントは一人ベッドの上で発作を起こし、瀕死の状態で発見されるのでした。
耳の無い自画像
退院したフィンセントはゴーギャンが去ってしまった広いアトリエで一人、友人を失った悲しみに暮れていました。
どうしようもない状況に慰めを求めるように、彼はまた絵を描きます。この時彼は左耳を失った後の自画像を描き残しています。
自分で耳を切って自画像に描くなんて、気味が悪い!なんていう文章もよく目にしますが、皆さんはどう思いますか?
辛いことがあると、いつもキャンバスの前に戻ってくるフィンセント。
アルコールや心の病に侵されて、次第に自分で自分がコントロールできなくなってしまう恐怖の中、鏡の中に映る”今”の自分を描くことで、その輪郭線をなぞり、いまの自分自身をピン留めするように、めちゃくちゃになっていく自分自身と戦おうとしていたんじゃないかな、と、筆者は思いました。
写実主義の彼らしく、鏡に映る自分を隅々まで見つめ、キャンバスに描き残した。彼にできる精一杯の反逆であり唯一の救いだったのかもしれません。
赤毛の狂人
この頃から彼は頻繁に発作を起こすようになります。
友人にカミソリで襲いかかり、自らの耳を切り落とし、発作を起こしては自失状態になる彼は、一部の住民から危険人物と思われてしまったのか、警察には彼を病院に隔離してほしいという旨の嘆願書が提出され、ついに市民病院に収容されることになります。
その後も入退院を繰り返すフィンセントを、住民は「赤毛の狂人」と呼び、大人は怖がり、子供達は石を投げて追いかけ回しました。
テオもヨハンナ(通称ヨー)と結婚した為、気軽に身を寄せることのできる場所がなくなったフィンセントは、サン=レミの精神病院に自ら入院します。
テオはそんな兄を不憫に思い、庭のついた個室を借ります。彼はいつでも庭の植物や虫を観察したりデッサンして過ごすことができました。
第4章 渦巻く星空
『糸杉』
サン=レミの療養院の期間にも、フィンセントの創作は止まることを知らず、また、その色彩は益々鮮やかになっていきます。
アルル時代にはひまわりというモチーフに一際強い愛着とこだわりを持って描き続けたフィンセントでしたが、サン=レミ時代に新しいモチーフと出会います。
皆さん、ゴッホといえば、で思い浮かぶもう一つの絵がありませんか?


フィンセントを世界的に有名にした、ひまわりと並ぶもう一つのモチーフが、この「糸杉」です。
炎のように大胆にうねり、躍動する線は、まるで時間や風の流れまでこちらに伝えてきているかのよう。同時に、強いエネルギーや陶酔、没入感などを感じます。鮮やかな色彩と美しい光の表現に好感を持つ人は多いはず。
しかし糸杉の制作に没頭し続ける兄を、テオは「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。無理に形をねじ曲げて描くことで、頭を酷使してめまいを引き起こす危険がある。」と心配していたそう。
彼は療養期間中に、糸杉や病室の庭から観察した風景を題材にして、次々と作品を制作し、その中には今では名画と称される作品も数多くあります。
しかし一方で、テオの心配が的中してしまったのか、突発的な発作が発作が止む事はなく、彼を苦しめ続けていました。
そんな中、ついに弟テオとその妻ヨーの間には、第一子となる男の子が誕生します。
彼らはその子に、敬愛する兄の名前を取り「フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ」と名付けました。
フィンセントは、甥の誕生を祝い、「花咲くアーモンドの木の枝」を送ります。
フィンセントが今まで描いてきた中で、これほど優しさに満ちた作品はありません。
新しい命の誕生を、蕾から花が開いていくアーモンドに例え、祝福しているようです。
以前は、テオに家族ができることで、自分の立場が脅かされるのでは、と恐れていた彼でしたが、テオの妻ヨーは想像以上に夫テオと、義兄フィンセントのことを理解し尊重してくれる器の広い女性でした。
いつしかフィンセントはテオだけでなくその家族のことも愛しいものと感じるようになっていたようです。
そんな幸せで穏やかな時間の中でも、彼の発作や時折頭の中を支配してしまう悲壮な考えは彼の中から出て行ってはくれませんでした。
この時のフィンセントの主治医は当時の彼の状態を「患者は、発作の時は恐怖感に苛まれ絵の具やランプの中の灯油を飲もうとするなど、幾度も服毒を図った。しかし発作のないときは至って静穏で意識清明。画業に没頭している。」と綴っています。
服毒未遂を繰り返す彼は、とうとう絵の具を取り上げられてしまいます。
医師も絵を描くことはフィンセントの精神の安定を助けている、ということを理解してはいましたが、命を守るために仕方ありませんでした。
一方、一時的に絵の具を失った彼は、その期間にも鉛筆で庭の草花や虫をデッサンし続けていました。
初めて売れた絵
良くなったり悪くなったりを繰り返す病状に疲弊しながらも、病室や庭で描き続ける生活のフィンセント。
そんな時、遠く離れたパリでフィンセントの絵は少しずつ評価を受け始めていたのです。
評論家のアルベール・オーリエは雑誌「メルキュール・ド・フランス」でフィンセントの作品を好評。ブリュッセルで開かれた20人展という展覧会では、フィンセントがアルル滞在期間に描いた「赤い葡萄畑」が400フランで売れます。これは彼の生涯で唯一売れた作品でした。
フィンセントはサン=レミで描いた絵をほとんどテオに送っていましたが、受け取ったテオはそれらの作品があまりに素晴らしかったため、アンデパンダン展に出展。すると、モネやピサロなど著名な画家仲間たちから高く評価を受けるのでした。
これらの反響はテオの手紙でフィンセントに知らされます。
本人は自身の作品に満足しておらず、すかさずテオへの返事に、評価を取り下げるようにみんなに伝えて欲しい、と書いていたそうです。
オーヴェル=シェル=オワーズ
サン=レミでは症状にこれ以上の回復が見込めないことや、自分たちの住むパリから近く、もっと良い環境に移してあげたいというテオからの勧めもあり、フィンセントはオーヴェル=シェル=オワーズに移住することに。
サン=レミから移動する途中、久しぶりに弟夫婦と、そして初対面になる甥っ子フィンセントに会うため、彼はパリに立ち寄ります。
パリで一家と過ごした四日間は、フィンセントにとって一番幸せに溢れて穏やかな時間だったかも知れません。その間発作が起きることはなく、今までほとんど文通でのやり取りだった弟と久しぶりに顔を見て言葉を交わし、影ながら彼の芸術活動を理解して支えてくれていたヨーや生まれたばかりの甥とも会うことができました。一家は散歩をしたりご飯を食べたり、ゆったりとした時間をフィンセントと過ごしてくれました。
オーヴェルに移った彼は1日に2枚という驚異的なスピードで作品を描いて行きます。
この時フィンセントの担当になったのは、ピサロから紹介されたポール・ガシェ医師。
フィンセントは彼を不思議な男だ、と言いながらも、ガシェ医師の内面に強く共感をしたようで「まるで新しい兄弟ができたようだ」と言い、二人は親しい間柄となりました。
ガシェは真摯に治療に当たりましたが、フィンセントの精神の病の根は深く、治療は一筋縄では行きません。
折悪く、その頃弟テオは経済状態が悪化。うっかりそのことをフィンセントへの手紙に書いてしまいます。
手紙を受け取り愕然とするフィンセント。パリで過ごした一家との愛おしい時間が脳裏を過ぎります。
社会的な価値もない、発作ばかり起こす狂人である自分が治療費や生活費や画材代を無心するから、あの家族は生活に苦しんでいる。自分の存在は愛おしい人たちを不幸にさせてしまうという考えが彼の頭を支配するようになってしまいます。
その後テオの元に届いたフィンセントからの手紙には自分の無力さや価値のなさ、弟に負担をかけ続けていることへの謝罪が何度も綴られていたと言います。
それからしばらく経ったある日。
フィンセントは小麦畑で胸に銃弾を被弾。急所を外れた弾丸は彼の肋骨付近に当たり、まだ息のあった彼は宿までの道を這って戻り、病院に搬送されます。
知らせを受けたテオは、兄の元に駆けつけます。ガシェ医師と共にどうにか一命を取り留めようと、その後二日間命をつなぎましたが、とうとうその腕の中でフィンセントは息絶えてしまうのでした。
1890年7月29日 享年37歳 フィンセント・ファン・ゴッホの生涯に幕が降りました。
彼が胸に受けた弾丸は、長らく自死を図ったものとされていますが、一説には少年たちのいざこざに巻き込まれ、揉み合った末に誤射されたもの、という話もあります。真相は未だ明らかにされていません。
自分の分身のように慕っていた兄の突然の死は、弟テオを精神錯乱状態に陥らせてしまいます。
その後、患っていた病気の悪化などが重なり、わずか半年後、兄の後を追うようにして亡くなってしまいます。
二人を長らく見守ってきたヨーは、夫をフィンセントのお墓の隣に埋葬しました。
ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル
テオの妻ヨー、本名をヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル。
彼女は器が広く、とても強く賢い女性であり母でした。
夫が他界し、母一人息子一人残された後、彼女は女手一つで息子を育てながら残された数え切れないほどの作品と、更に莫大な数の、夫と義兄の手紙を整理し始めました。
最初は彼の作品の良さが分からなかったヨー。
彼女には、夫がなぜ自分たちの生活が苦しくなっても、強い意志を持って兄に支援をし続けたのか、疑問でした。
ですが彼らの手紙のやり取りを読んでいくと、フィンセントは狂った変人ではなく、むしろ夫が言っていたように、世の中の本当を見据えていた人だったのだと、世の中に誤解されやすい彼を、弟だけが理解し、守り、将来いつか世の中に描き続けさせたのだと、彼らのやり取りに涙を流したと言います。
その後、すべての作品と手紙を年代別に整理し、その生涯をかけて彼の作品の価値を世の中に伝えるために奔走します。
今や世界中で個展が開かれ、最も価値がある絵画のうちの一つとされるゴッホ作品。その価値をここまでにしたのはヨーの多大なる功績があってこそなのです。
強い女
一人の女性として、妻として、母として本当に素晴らしい人だったヨー。
当時、女性一人の力でこれだけの偉業を成し遂げるのは並大抵の苦労では無かったはずです。
しかし、彼女の原動力になったのは、多くの記事が語るように愛や尊敬や悲しみや、そんな美しいあれこれ”だけ”だったのでしょうか。本当に?
ここからは勝手な個人の考察になりますが、
ヨーからしたら、最愛の夫も、安定した収入や生活も、家族で過ごすはずの未来も、フィンセントに全部奪われてしまいました。
幼い子供と二人残されて、これからどう暮らしていけばいいのか、途方にくれたことだろうと思います。夫の死を十分に悲しむ余裕さえ、もしかしたらなかったかもしれません。
夫がいなくなった家には、憎き義兄が残した絵やら手紙やら、一銭の価値もないガラクタが溢れている。さぞ虚しく、悔しかったろうと思います。
これだけ全部をめちゃくちゃに、台無しにされて、ただ悲しく生きていくだけなんて、納得いきませんよね。
この絵も手紙も全部お金に替えて、子供と二人、絶対に幸せになってやる。
そのための嘘ならなんだってついてやる。悲劇も惨劇も全部美談に変えてやる。
そんな折、天が味方してくれたのか、フィンセントの作品はぼちぼち評価が上がってきていました。
彼女はそんな小さなタイミングを見逃さず、「彼の作品を好きになってもらうまで諦めません!」と、様々な評論家に売り込みをかけていきます。
そしてついに名もなき狂人を、偉大な巨匠に仕立て上げることに成功します。
自身の不運な半生には蓋をして、泣き言ひとつ零さないで。
一人静かに、本当の熱情は胸の内に灯し続け、自らの力で自らの幸せを勝ち取ったのでした。
...というストーリーを妄想せずにはいられないのです。
そして、ヨーという女性が、そんな風に強く、凛とした美しい人物だったらいいな、と思っています。
おわりに
「ひまわり」を描いた画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。
その生涯をご紹介しました。彼は麦畑での事件の数時間前まで、作品を描きつづけていたと言います。
それがこちらの絵。
この作品はついに完成することはありませんでしたが、生き生きとした根のうねりや力強い色使い、線の躍動からは、少なくとも彼がこの絵を描いていた瞬間は数時間後に自死をしようと考えていたとは思えない程、瑞々しい印象を受けます。
人と関わることが苦手で、しかし繊細な感性と強い意志を持っていた彼は、心の内に抱く感情や苦悩を、人一倍鮮やかな色彩に乗せて、その命の終わる寸前までキャンバスに描き続けました。
生涯、最愛の弟以外には多く語られなかったフィンセント・ファン・ゴッホの人生は、2000枚の作品と600通の手紙を通して、その一端を感じることができます。
オランダ、アムステルダムの地には彼の名前を冠した美術館が建てられ、連日、世界中から彼の作品を目当てに沢山の人々が足を運んでいます。
今や世界中から愛されるゴッホ。皆さんにもその魅力の理由が少しでも伝わっていましたら幸いです。