モナ・リザとは?|万能の天才が描いた謎と魅力を解説
投稿日:(木)

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みなさんこんにちは。WASABI運営事務局のシナモリです。
突然ですが、世界一有名な絵画はなんだと思いますか?
ピカソやゴッホなどの名前も浮かぶかもしれませんが、作品名としてはやはり《モナ・リザ》ではないでしょうか。
教科書にも載っていますし、学校の七不思議でもお馴染み。そのせいか、不気味・怖いという印象があるかもしれません。
映画『ダ・ヴィンチ・コード』をきっかけに、この絵を取り巻くミステリーに興味を持った方もいるでしょう。
世界中が見つめ続けているにも関わらず、《モナ・リザ》は今なお謎だらけ。
名画とされる理由や有名になった経緯、描かれているものについて、詳しく見てみましょう。
なぜ有名になったのか

フランスのルーヴル美術館に展示されていることは、もちろん理由の一つ。年間800万人以上が訪れ、来場者数は世界一を誇ります。
そして《モナ・リザ》を有名にした最大の要因は、これまでに起きた数々の事件です。
世界中を騒がせた《モナ・リザ》盗難事件
1911年には盗難被害に遭います。
実行犯は、ルーヴル美術館職員のビンセンツォ・ペルージャを含む3人の男。展示作品の保護設備に関わっていた為、館内を詳しく把握していました。
さらに縦77×横53cmと小さい作品であるため、衣服に隠すことができたのです。
計画的犯行により盗み出された《モナ・リザ》は、フィレンツェへ持ち込まれます。
ペルージャは逮捕された際に「この絵をレオナルドの故郷に取り返したかった」と動機を述べ、イタリア国民から支持を受けます。その為、懲役6か月という軽い刑に留まりました。
裏で糸を引いていたのは詐欺師?
しかし実際は、詐欺師が贋作の価格高騰を目的に指示したとも言われています。本物が見られなくなれば、それだけ贋作の価値も高まります。《モナ・リザ》が盗まれている間、詐欺師は約40億円もの利益を得たとされています。
一方ペルージャは、名画を隠し持つプレッシャーと経済的困窮に苦しみます。
そこで《モナ・リザ》売却の取引を画商に持ち掛けますが、その連絡がきっかけで警察に通報され、逮捕に至ります。
ウフィッツィ美術館のジョバンニ・ポッジ館長が真作であると判断し、《モナ・リザ》は2年以上の時を経て、ようやくルーヴルへ返還されることになりました。
スーツケースの中に厳重に隠されていたこと、ペルージャが暖房設備の整わない環境で暮らしていたことが、結果的に作品の劣化を防ぎました。
メディアが生んだ“伝説の名画”
当時のメディアはこの事件を大々的に取り上げ、警備の杜撰さを批判すると共に、《モナ・リザ》の名を広く報じました。
実はルーヴルだけでなく、かつての美術館では展示物の模写が許されていたほどに、名画との距離が近かったのです。
その後も1956年には、刃物で切り裂かれそうになる、酸をかけられる、石を投げつけられるといった事件が相次いで発生。
1974年、東京国立博物館で展示された際には、日本人女性によりスプレー塗料を吹き付けられました。
2009年にロシア人女性により陶器のティーカップが投げつけられ、2022年にはケーキをなすりつける者が現れます。
昨年にもカラーインクがかけられる事件があったことは、記憶に新しいのではないでしょうか。
これらの事件の多くが、環境問題や差別への抗議など政治的・精神的メッセージを訴える目的で行われました。自らの思想を表現するために名画を利用する、許しがたい行為です。ただ、それだけ《モナ・リザ》には世界に対する影響力があるという証でもあります。
また、サルバドール・ダリは《モナ・リザ》について、「非常に暴力的かつ様々な攻撃を誘発する力を持つ、美術史の中でも稀有な作品だ」と述べています。この絵画の謎めいた吸引力が、これだけ数々の事件を起こさせるのではないかと感じたようです。
現在はドゥノン翼1階の展示室711で鑑賞することが出来ますが、今後の改修工事で《モナ・リザ》の為の特別室が作られ、別途入場チケットが必要になるそうです。
年間800万人以上の殆どがこの絵を目当てに訪れる為、混雑緩和だけでなくセキュリティの強化も実現すると考えられます。
制作年とモデルの謎

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『モナ・リザ』/ ルーヴル美術館蔵
《モナ・リザ》には未だに解明されていない点が多く、最大の謎はこの絵がいつ、誰を描いたものであるかという事です。
モデル候補には、マントヴァ公妃イザベラ・デステほか複数の女性の名が挙げられ、更にはレオナルド自身という説もあります。
現時点で最も有力とされるのは、リザ・デル・ジョコンド夫人。
10代で絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目の妻になった女性です。
古イタリア語で『我が淑女(貴婦人)』を意味するma donna(マドンナ)。その短縮形がmona(モナ)、つまり《モナ・リザ》はリザ夫人と訳されます。
彼女がモデルであると言われる理由には、主に3つの資料が関係しています。
資料①:美術史家による著書
1550年に出版されたジョルジョ・ヴァザーリ著「芸術家列伝」には、以下の内容が記載されています。
・レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で彼の妻の肖像画を描くことになった
・制作に四年間を費やしたが、未完成である
・現在はフランス国王が所有しており、フォンテーヌブロー宮殿にある
この部分が、《モナ・リザ》について説明したものと見られます。
自身も芸術家であったヴァザーリが、ルネサンス期の画家や彫刻家たちの伝記を執筆したもので、美術史においても重要な文献とされています。
資料②:本の余白のメモ書き
ハイデルベルク大学図書館の蔵書に、フィレンツェの役人アゴスティーノ・ヴェスプッチによるメモ書きが発見されました。
そこには1503年10月、レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作中である旨が記されています。近年の分析結果からも、《モナ・リザ》は1503年〜06年頃描かれたものだと言われており、時期は合致します。
資料③:遺品リストのタイトル
死の間際レオナルドの手元にあった絵画は、《ヨハネの洗礼》《聖アンナと聖母子》《モナ・リザ》の3点です。そして弟子のメルツィに託した遺品リストには、作品名として《La Gioconda》と記載されていました。このことからも、タイトル通りリザ・デル・ジョコンドがモデルという説が最も有力となっています。
これだけの要素があるにも関わらず、なぜ制作年やモデルは確定していないのでしょうか?
それは、上記の点にはそれぞれ確実でないという見方もあり、考察が入り混じっている為です。
① ヴァザーリは《モナ・リザ》を実際に観たことはなく、伝え聞いた話を書いている。レオナルドにも会ったことはない。(弟子のメルツィには会ったとされる)また、この著書は所々誤った箇所や、いわゆる『盛った』記述も含むといわれる。
② 輪郭をぼかす絵画技法であるスフマートをレオナルドが用いた時期から、描かれたのは1513年以降だと唱える研究者もいる。
しかし「描き始めたのが1503年頃で、晩年まで加筆し続けたのであれば説明がつく」等、制作年については意見が分かれている。
③ 遺品リストの《La Gioconda》と、ルーヴルにある《モナ・リザ》は別の作品である。《モナ・リザ》はフランス王フランソワ1世に献上されたと考えられているが、近年では、レオナルドの生前に弟子のサライが売却したと見られる記録もある。
主にこれらの反論や資料の数々が、《モナ・リザ》の謎を生んでいます。
モナ・リザは1枚ではない?
ラファエロのスケッチが示す“もう一つのモナ・リザ”

ラファエロ・サンティ『バルコニーの若い女性』
このスケッチは、レオナルドに学んだラファエロが、1504年頃に《モナ・リザ》を見て描いたものとされています。しかし、こちらは両端に柱があり、服装や人物の表情も異なっているように見えます。
1503年頃描かれたという肖像画のモデルは、リザ夫人であったのかもしれません。しかし依頼主に納品されず、死の間際まで画家が手を加え続けたことを考えると、現在ルーヴルにあるものとは別の《モナ・リザ》が存在した可能性が高まります。
謎の《アイルワースのモナ・リザ》
その「もう一枚のモナ・リザ」と言われるのが、《アイルワースのモナ・リザ》です。

アイルワースのモナ・リザ
この絵は1913年に、イングランドの貴族の家で発見されました。
ラファエロのスケッチ通り両側に柱が描かれ、背景などは未完成のように見えます。ヴァザーリの記録とも一致しますが、これが真筆かどうか定かではありません。
同じ構図の肖像画として、複数の模写が発見されています。
しかし、レオナルドはポプラ板に油彩で描いたのに対し、他の作品はキャンバスに描かれているのです。この《アイルワースのモナ・リザ》も同様で、そのことが真贋を疑わしくしていると言われています。模写の多くは主に弟子たちによるもので、《モナ・リザ》から型を取って制作されたためです。
ルーヴルの《モナ・リザ》と比較すると、顔はより可憐に女性らしく描かれています。モデルを美しく描き残すのが肖像画の意義ですから、その点で言えばこちらの方がよりふさわしくも思えます。
所有者はレオナルドの真筆であると主張していますが、現在この絵は非公開であり、最新技術での鑑定も行われていません。より詳しい解析にかけてみれば、新たな事実が判明するかもしれませんが、それは叶わないようです。
モデルは誰だったのか?重なる女性たちの影
ルーヴルの《モナ・リザ》がリザ夫人ではないとすれば、その他に候補とされる人物はどうでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『イザベラ・デステの肖像』
これはマントヴァ公の妃、イザベラ・デステを描いたとされるデッサンです。
体の向きは異なるものの、手を組むポーズ、シンプルな衣服。確かに《モナ・リザ》の原型が感じられます。肖像画を依頼されていたレオナルドは、デッサンを描いて彼女に渡しますが、そのうち1枚は自身で持っていました。このデッサンを基に自画像と組み合わせ、油彩で描いたのが《モナ・リザ》だという説があります。
なお、イザベラ・デステの肖像画は最後まで完成せず、彼女から度々催促の手紙が届いていたようです。
《モナ・リザ》の頭部に見える薄いヴェールはグアルネロといい、妊娠中または産後の女性が被るものとされます。
リザ夫人もイザベラ・デステも、モデルになった時期には身籠っていたという記録が残っており、どちらが《モナ・リザ》であるのか、さらに判断が難しくなります。
レオナルド自身を描いた?自画像説の浮上

レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』/ルーヴル美術館蔵
左の目頭にあるイボのようなものも争点となっています。
これは妊婦に見られる特徴であるとも、絵具を落としただけとも言われます。しかし肖像画であれば「より美しく描く」ことが重要ですから、女性の顔にある突起物をそのまま描くとは考えにくいでしょう。
こうなると自画像説が残りますが、本人も目頭にイボがあり気にしていたとか、レオナルドの自画像を反転させて重ねると、顔の位置がぴったり合うとの研究結果もあります。
体つきや服装から見ると女性を描いているはずなのですが、その表情にはどこか性別を超越している印象があります。
首の上と下で異なるモデルが存在するとしたら、多様な説が絡み合うのも頷けます。
このように、制作年とモデルについては様々な考察が入り交じり、《モナ・リザ》の謎を深めているのです。
背景に描かれているもの

レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』/ルーヴル美術館蔵
《モナ・リザ》を巡る論争は、背後に描かれた風景にまで及んでいます。
自分たちの村にある橋こそモデルだと主張し、観光スポットにしようとする人々もいます。歴史家のシルバノ・ビンチェティは、1501年~03年頃にレオナルドがラテリーナという町に住んでいたとし、そこにあるロミート橋が描かれていると言います。
さらに地質学者のアン・ピッツォルッソが、イタリア北部のロンバルディア州、コモ湖のほとりを描いているとの説を発表します。橋のデティールだけでなく、その地形を照合し結論付けたと述べています。
しかし、《モナ・リザ》の背景全体は左右で繋がっておらず、水平線の位置も合いません。
自然科学に精通したレオナルドですから、あえてそのような「ありえない景色」を描いたことには何らかの理由がありそうです。
川に流れる水が乳を意味しており、母性を表すという説などもあり、様々な見方がされています。
現時点では、空想上の風景を描いたものとされています。
レオナルド・ダ・ヴィンチが込めた想い

出典:Wikipedia
レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、その才能があらゆる分野にわたり「万能の人(ウォモ・ウニヴェルサーレ)」と称されます。
絵画では少年期から師匠を凌駕し、建築、科学、数学、医学などの知識を深め、軍事技術者の仕事もしていました。
さらには宮廷祭事や舞台の演出、楽器の製作まで行っていたそうです。
そんな人類史に残る天才が最期まで手元に置いた絵ということで、至宝となる理由は充分にあります。レオナルドの作品は生涯で15点程しかなく、しかも未完成であったり、真筆か否か不確定のものも含まれます。
《モナ・リザ》はあらゆる点において、非常に価値が高い絵画です。
そういった外的要因だけでなく、作品そのものが持つ魅力の正体とは何でしょうか。
画家自身について知ってみると、この絵に込められた想いが少しずつ見えてくるかもしれません。
レオナルドは人生の中でイタリア各地を訪れ、そのたびに様々な価値観を取り入れていきます。
中でも当時のヴェネツィアでは多様な文化が共存しており、新鮮な発見に満ちていました。
アジアや中東の文化・宗教にも触れ、仏教徒とも交流があったようです。そう聞くと、《モナ・リザ》の微笑みにはどこか仏像に通じる雰囲気があるようにも思えます。
元々キリスト教の考え方には批判的で、異教徒とされていたレオナルドですが、自然や人間について学びを突き詰めるうち、独自の宗教観が形成されていった可能性があります。そしてそれは、終生描き続けた《モナ・リザ》にとっても、重要なことでした。
・鏡を見つめて己と向き合い、それを描く
・畏怖すべきは自然であり宇宙である
・生と死、善と悪など相反する要素を含むのが人間である
信仰の違い=価値観の違いで争うことは無意味だと、それまでの人生を経て心底感じたのではないでしょうか。
自分なりに辿り着いた真理を作品として表現することが、晩年のレオナルドにとって重要な目的となりました。
作画技術の成熟

出典:Adobe Stock
《モナ・リザ》には筆の跡がほとんどない代わりに、指紋が多く残されています。この絵において注目すべき技法のひとつが、スフマートです。
物体を絵で表すとき、通常は輪郭線でその形を描きます。
しかしレオナルドはその鋭い観察眼と研究で、陰影や色の明暗により物体の境界線が見えていることに気付きます。
それを絵画表現に活かすため、指で擦りながら絵具をぼかし、乾かしてはまた塗っていくという工程を繰り返します。透明度の高い絵具を薄く重ねていくことをグレーズといい、イタリア語で言う「煙」のようにぼかすことをスフマートといいます。
特徴的な「モナ・リザの微笑み」を演出しているのも、この技法による絶妙な陰影です。
他にもスフマートを使用した画家はいましたが、高い技術力と忍耐を要するため、ここまでの域に達するのは並大抵のことではありません。
それだけ、この絵にかける想いも強かったのではないでしょうか。

出典:Pixabay
もう一つ有名なのは、背景に使われている空気遠近法です。
遠近法については、それまでにもアルベルティやブルネレスキによって体系化されていました。奥行きを二次元で表現するために、科学的根拠に基づく方法を研究していたのです。
空気遠近法は、それまでの線遠近法に加え「風景は遠くのものほど青く霞んで見える」ことを利用した表現方法です。ちなみにこれはレイリー散乱によるもので、
①光は大気中の分子に当たると散乱する
②青い光の波長は短く、赤い光の波長は長い
③波長の短い光は分子にぶつかる回数が多くなることで散乱し、波長の長い光は分子をすり抜けて、観測者の目により早く届く
上記のことが関係しています。
また、湿度が高く大気中の塵が多い場所では遠景が白く見え、これはミー散乱と呼ばれます。
このような理論が明確になる前から、レオナルドは色彩の付け方で空間を表現する独自の方法を作り上げていったのです。
これまで天性の感覚でつかんでいた物事に、学びが加わったことでその技術が成熟していきました。
その他にも、医学や解剖学を土台にした人体の表現、錯覚を利用した安定感のある構図。あらゆる学術的知見から対象をとらえ、そのすべてを注ぎ込んだ最高傑作と言えるでしょう。
まとめ

レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』/ルーヴル美術館蔵
アインシュタインが「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である」
と述べたように、一方向からだけでは世界を正確にとらえることはできません。
レオナルドも絵画と向き合い、科学、医学、哲学などあらゆる分野を学ぶ中で、自然や生命の神秘を実感したのではないでしょうか。
それまでの西洋では、絵画や彫刻はキリスト教を表現する方法、技術であるとされていました。そして人間について考え、学問の力を合わせることで芸術へと昇華していったルネサンス運動の象徴が、この《モナ・リザ》です。
彼は才能に恵まれただけでなく、学問に対する努力を惜しみませんでした。
上手くいかないこと、裏切られることもありましたが、彼はその全てを観察し、検証し、地球上のあらゆる物にまなざしを向け続けました。
そしてレオナルドが最も愛したとされる《モナ・リザ》という絵には、彼の人生そのものが描かれているのです。
技術も日々進歩する中、新たな研究結果により定説は覆っていきます。真実を解明するために、人々はこれからもこの作品に向き合い続けていくのでしょう。
しかし《モナ・リザ》が残したのは謎だけではなく、この世界について学び続け、異なる価値観を認め合うべきだという、レオナルド・ダ・ヴィンチからのメッセージなのかもしれません。
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