それぞれのアート、それぞれの人生。 -例えば私のこと-【アーティストの制作現場 Vol.04】
投稿日:(金)
目次
こんにちは! WASABIコーディネーターのmeikoです。4回目に突入した【アーティストの制作現場シリーズ】、お楽しみいただけていますでしょうか? これを読めばより深く作品を味わえるようになること間違いなし! 作品購入前後に読んでいただくのもおすすめです。
今回は画家の関口彩さんにご登場いただきます。落ち着いた魅力を放つ人気の"ブルーシリーズ"はもちろん、誰が見ても「関口さんの絵だ!」と分かる、繊細な色の重なり合いや筆づかいには多くのファンがいらっしゃいます。
そんな彼女の作品の魅力ですが、ずばりそのお人柄から生まれてくるのだろうと、このコラムを読んで私は確信しました。画家として活動するまでに抱いたたくさんの葛藤。「自分らしさはどこにあるのか、どのように向き合うべきなのか」。こうした悩みには誰もが共鳴するのではないでしょうか。
そして最後には誰もがアートを楽しめるようになる合言葉も!
どうぞごゆっくりお楽しみください。
ぜひ関口さんの作品もご覧くださいね♪(作品一覧はこちらから)
【アーティストの制作現場】過去のシリーズ
(1)miotokyo『私がアーティストとして表現し続けるもの』
(2)樫内あずみ『植物からのラブレター -自然物としての絵を模索する-』
それぞれのアート、それぞれの人生。 -例えば私のこと-
みなさんこんにちは。画家の関口彩です。
今回はコラムを書く機会をいただき、とてもワクワクしています。絵を描いて表現するのはいつものことですが、文章で自分のことを表現する機会はあまりないことですから。身近にアーティストがいらっしゃらない方にとっては存在自体が分からないことだらけでしょうから、私をひとつの例として、より身近に感じていただければ嬉しいです。
ブルーシリーズを始めて発表した際に描いたライブドローイング
“自分らしさ”を探した先にあったアーティストという生き方
私がアーティストになろうと思ったのは、一番古くは確か小学2年生で「画家になりたい」と家族に言った記憶です。理由は単純で、絵を描くことが得意だったから。あとは、きっと身近な大人に「将来は画家さんになれるんじゃないの」なんて言われたのでしょう。
保育園卒園アルバムに描いた絵
だけど家族には「そんな、死んだ後にしかお金が入ってこないものはやめなさい」と言われ(なんの知識も根拠もないのにね)、子どもだった私はあっさり「そういうものか」と理解していました。そして小さい頃からまあまあ勉強ができてリーダータイプだった私は、いわゆる優等生として獣医を目指すようになります。
転機は高校時代。大人になって思えば、一生懸命優等生を演じてきたことに葛藤が生じ"自分らしさ"を必死に探し始めた頃だったのかもしれません。 私は登校拒否やテストのボイコットを重ね、獣医学部のあるような大学へ行く学力ではなくなりました。
「お前はもう、美術で大学に行くしかない」
ようやく美術が進路の選択肢に入ってきたのは、美術教師で学年主任の一言によってでした。
結局葛藤時代は数年続き、大学へは行きませんでした。社会的信用も自信もなかった私は、ひとまず就職をし、今以上の満足を求め転職を繰り返しました。
いよいよ誰もが知る大きな会社に入った時「どんなに希望通りの会社に入って希望通りの仕事をしても、いつも心が満たされない」と気付いたのです。
「もう本気で絵に向き合うしかない」そう思えたのは30歳を超えた頃でした。そこからは堰き止められていた川が流れ出すように、一気に私を応援する出来事や支援してくださる方が現れました。
当時は失敗する恐怖や不安がまだまだありましたが、周囲の人が「(プロになるのに)なんの心配もしていないよ」と背中を押してくれました。"自分らしさ"を外に探しに行くのはもう終えてもいい!と自分に許可が下ろせるようになった時、心がとても軽くなるような気がしました。
子どもの頃から「こうあるべき」という思い込みや社会的な価値観を、まるで玉ねぎの皮のように幾重にも重ねてきた私は、ありのままの自分になるべく、その皮を剥く作業の真っ最中です。
誰もが自分の内に持っている「玉ねぎの芯」を頼りに生きていけるように、少なくとも私は自分を偽らない姿で絵を描きたくさんの人に見ていただこう。そう心に決めています。
自分のルーツを受け入れるということ
高校を卒業した私は、美大に入学するために東京の美大予備校に通い始めました。
しかし、大学に入るための実技や学科の訓練に、高校生の時よりさらに拒否反応を示した私は家に引きこもるようになりました。唯一私が自由でいることができた美術が、合格のための訓練によって、私を縛るものでしかなくなったのです。そうして結局、富山に戻ることにしました。
富山に帰ってもしばらくは同じ予備校の通信を受けていましたが、引きこもりは悪化する一方。ならば「自力で画家になろう」と腹を括り、それを予備校の先生に伝えると「富山で何をするの?コンクールはあるの?せっかくの才能をどうするの?」と返されたのです。
この言葉は、かなり長い間呪いのように私につきまといました。確かに、ギャラリーの数など多くの面において東京の方が機会に恵まれているのは事実です。東京の美大に行けば出会えたかもしれない志高い仲間や先生からの情報がないというのも、大きなマイナスのように思えました。私は「田舎では無理。東京に行かなければ、画家になれない」と何度も悩みました。
呪いの言葉に縛られ続けていたある日「私って、東京は良くて富山は駄目って、生まれたルーツを否定しているんじゃないか」と、ふと思いました。
例えば植物は種がこぼれた場所で芽を出し育ちます。それは植物の意思ではありませんが、そこでしか見ることのできない美しい花を咲かせます。自分が富山で生まれ育ち見てきた景色や感情もまた、「ここでしか育めなかったことなのでは?」と気づいたのです。
そこからは、自分のルーツを思い出そうと、私の大好きな地元の海や山、植物など、当たり前にあると思い見過ごしてきたものたちに一層目が向くようになりました。花を摘んだり、石を拾ったりする子どもの頃に大好きだったことを再び思う存分することによって、私の絵のモチーフが好きなもので溢れるようになりました。
自力で画家になるという決意から20年程が経ち、今では画家として活動できるようになりました。作品を直接鑑賞できる展示会はもちろん、インターネットを通じて多くの方に作品を見ていただいています。
私という「種」がこぼれ落ちた、ルーツである富山での暮らしを受け入れることができた今、これまでの人生で一番自分らしく生きているような気がします。 私にしか生み出せない作品であれば、それがたとえ地元の富山で描いたものであっても、求めてくださる人は世界中にいるのだとようやく理解することができたのです。
「なんかいいな」を頼りに
絵画教室を開くと「私ってアートの見る目ないんです」とか「絵心ないんです」という言葉をよく聞きます。私はいつも「自分が良いと思えばそれで良いんですよ」とお伝えします。
例えば洋服を選ぶときに、正解ってないでしょう? 流行りはありますが、その時々で自分の好きなものを選ぶと思います。確かにプロの絵はある程度の正解というか、一定ラインの技術やセンスは必要でしょうし、アカデミックな知識が必要になるコレクターの世界もあります。
しかし楽しく鑑賞したり描いたりすることには、私は正解などないと思っています。
私が自然のものを描くのは自然が好きだからですし、自然がそうであるように、ふっと人の心を軽くしたり癒したりすることができるようにと願いながら制作しています。他のアーティストも、様々な思いを持っておられるでしょう。
人それぞれ、良いと思うものや必要なものは違いますから、誰の意見でもなく、心の中から「なんかいいな」と湧き上がってきた感情を頼りにすれば、それで良いと思うのです。
「正解・不正解」のふた通りに縛られるなんて、勿体無いことだと思いませんか。
アートは心のサプリメントにもなるし、見えない世界にトリップするための装置にもなり得ます。そしてそれは、見る人のイマジネーションによって何通りにも広がります。
自分にしか感じることのできないものを大切にして、ぜひアートがある暮らしを楽しんでみてください。
ARTIST DATA