アートの民間支援のルーツをたどる【メセナを学ぶVol.2】

投稿日:(金)

アート

目次

2022.3.4.UPDATE)

みなさんこんにちは。ライターの高橋です。


【メセナを学ぶ】シリーズVol.1では、『メセナとは? まちなかにたたずむ「コミッションワーク」』と題し、メセナについて学びました。(Vol.1はこちら)

Vol.1のポイント

 

◎メセナ

企業がアートをはじめとしたさまざまな芸術文化の活動を支援する方法

◎コミッションワーク

アーティストと企業などのクライアントとの協働によって生まれた作品
(まちなかやオフィスなど、美術館やギャラリー以外の場所に設置された作品もあり、私たちのすぐそばに存在しています)


さて、今回はそんな「メセナ」という考え方をもう少し広くとらえて、日本の江戸時代から戦後にかけての「民間規模でのアート支援」の歴史を紐解いていきたいと思います。





日本のアートの民間支援のあり方 江戸から戦後まで

版元・蔦谷重三郎の情熱

企業による文化活動支援を指す、欧米由来の「メセナ」。この考え方や活動は、日本において戦後の高度経済成長期ごろから普及し、現在に至っています。


しかし、メセナを「民間規模でのアート支援」としてひろくとらえてみると、江戸時代から既に日本の歴史のなかにも多様で豊かな民間における支援が存在していました。



浅草菴市人 編、葛飾北斎 画『画本東都遊』1802年(東京都立図書館蔵)
蔦屋重三郎の営む「耕書堂」という絵草紙屋でのにぎやかな様子が描かれています。


江戸時代は武家や公家、寺院などの特権階級ではなく、町人(都市に住む商人・職人など)たちが文化を豊かに支えたことでも知られていますよね。戦国時代が終わったことで、日々の暮らしをより豊かにする文化的活動が、町人を主体としてさかんに行われる様になりました。


もちろん、幕府専属の「御用絵師」など、民間以外の支援を受けていたアーティストは存在しましたが、その数はごく一部に限られていました。


では、多くのアーティストたちはどのように制作活動を継続し、彼らの作品は誰の支援によって人びとに親しまれるようになったのでしょうか?


ここで注目すべきなのは、当時、版画技術によって大量に複製された出版物が、老若男女問わず多くの人びとに親しまれていたということです。


挿絵をメインにした複製可能な出版物には、現在の本に相当する「草双紙(くさぞうし)」と、「一枚摺(いちまいずり)」があり、おとぎ話、歴史物語、軍記物、恋愛、事件など、それらの題材は実にさまざまです。



草双紙
岸田杜芳 戯作『草双紙年代記:2巻』1783年、井原堂 出版(国立国会図書館蔵)



一枚摺
勝川春草、一筆斎文調 画《絵本舞台扇》1770年、雁金屋伊兵衛 出版(国立国会図書館蔵)


こうした豊かな作品は絵師だけでなく、彫師(絵師の描いた図案を木版に彫る)や摺師(木版を紙に摺る)など、多くの人びとの協力がなければ完成しないものでした。


そして、絵師・彫師・摺師らによって完成した作品を出版・普及させるために最も欠かせなかったのが「版元」と呼ばれる存在です。


版元は、有望な絵師らを見出し、育て、資金繰りをしながら、彼らとともに企画から制作、販売までをすべて手がける、現在のプロデューサーや出版社のような役割を担っていました。


その版元として現在でも有名なのが「蔦屋重三郎」という人物です(ちなみに現在有名な「TSUTAYA」は、彼の名前にあやかってつけられたそう!!)。


江戸の吉原に生まれた彼は、23歳のころ吉原大門近くに書店を構え、同じ年に自らが版元の本を初めて出版。文化人の集まる吉原の地の利を生かして着々と人脈と信頼関係を築いていきます。


その後彼は、版元の大家として喜多川歌麿、東洲斎写楽など唯一無二の逸材を見出し、人気絵師として育てあげ、商売を成立させました。


この偉業は、江戸の大衆芸術・出版文化の成熟に大きな影響を与えました。のちの「化政文化」の礎になったと言えるでしょう。



喜多川歌麿《寛政三美人》1793年、ボストン美術館所蔵

蔦屋は当時、役者絵で主流だった上半身をクローズアップして描く手法を歌麿に提案。美人画に導入し、大評判となりました。



自らの商売を成功させるだけでなく、アーティストたちがその才能を開花させるまで精神的に辛抱強く支え、その後も数多くの作品を共に作り出した蔦屋。


ここに、日本のアートの支援のあり方のひとつを見ることができるのではないでしょうか。


蔦屋のような情熱をもったたくさんの版元や絵師、職人ら町人の手によって生み出された作品が、同じく町人の手に還元され、その反応が、また作り手たちを奮起させる。


この循環によって、町の人びとが芸術文化に親しむ土壌が生まれていったと考えられます。



円山応挙《雪松図屏風》1786年頃、三井文庫(三井記念美術館保管)

江戸時代の豪商であった三井家は、円山応挙の代表的なパトロンとして数多くの作品制作を依頼し、活動を支援しました。




 

近代以降の民間支援


三井記念美術館の入る三井本館は、1929年に建てられ、国の重要文化財にも指定されています。美術館のほかに、三井不動産や三井住友信託銀行などが同居しています。


さて、明治以降もこうした民間支援のあり方は続いていきます。


たとえば現代でも続いている三菱、三井、住友などの旧財閥は、一族に代々受け継がれている美術品を保管しつつ、国内外の芸術家の作品も積極的に収集しました。


第二次世界大戦終戦後、これらの財閥は戦前・戦中の戦争責任を問われ、財閥解体や資産の没収等が行われましたが、その後手元に残った貴重なコレクションを公開するため再起。財団等を創設して美術館等を設立・運営し、現在に至るまでアートに限らず音楽や伝統芸能などの活動資金の助成も行っています。


また、日本の代表的な美術館である国立西洋美術館のコレクション(所蔵作品)は、明治~大正時代にかけて造船業で成功を収めた松方幸次郎という実業家のプライベート・コレクション(その数は一時、1万点にものぼったとか!)がもとになっています。



国立西洋美術館 常設展示室


このほか、目白にある美術館「永青文庫」のコレクションとなっている作品群を蒐集し、小説家やアーティストの活動を支援した宮内省官僚・細川護立のようなパトロンも複数存在していました。


このように、近代以降の芸術支援では、華族などの少数の階層の人びとに加えて、事業で成功を収めた実業家などが海外の作品を購入・蒐集するという支援方法が加わりました。


加えて国内のアーティストの活動をも資金的に援助する上記のパトロンたちの存在によって、西洋の文化を取り入れた日本の近代美術が下支えされていくこととなります。


こうして、時勢や手法は異なりますが、日本にもメセナの下地となる民間支援の歴史が育まれていたことがわかります。


まとめ

さて、今回の記事ではひろく「民間規模でのアート支援」の観点で日本の江戸時代から戦後までを概観しました。


こうしてみると、メセナという西欧の考え方が輸入される前後で共通するのは、「作品やそれを生み出すアーティストの魅力や能力を信じる姿勢」なのかもしれません。


ある人は、アーティストとともに苦楽を共にし、またある人は経済的な支援(投資)を行って、評価の確立していない作品・アーティストか否かを問わず、それらを慈しむことで、作品が後世に受け継がれていく。


支援の方法は様々ですが、その信念や活動が蓄積し、継承されることが、後世の人びとがアートに親しむことのできる習慣や文化を生み出していくのだと思います。


次回は、「どうして企業は芸術文化に投資するのか?現代のメセナのあり方とは」と題し、現代におけるメセナの重要性を一緒に考えていきたいと思います。


現代の企業もこうした伝統を承けて、利益を自社の利潤にするだけでなく、文化的に社会に還元する「メセナ」に取り組んでいます。ぜひご注目ださい。



(参考)

・『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』松木寛著、講談社学術文庫、2002年

・『進化するアートマネジメント』林容子著、レイライン、2004年

・『美術、市場、地域通貨をめぐって』白川昌生著、水声社、2001年

・公益社団法人 企業メセナ協議会

https://www.mecenat.or.jp/ja/

・2019年度メセナ活動実態調査[報告書]

https://www.mecenat.or.jp/ja/wp-content/uploads/MecenatReport2019.pdf




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